仏陀の教えにおける「縁起(えんぎ)」「無常(むじょう)」「無我(むが)」は、この世の真実の姿を示す三つの真理として捉えられ、深く相互に関係しあっています。
これらの教えは、仏教の根本的な基盤を形成する「法(ダルマ)」(真理)の内容をなしており、特に「無常」と「無我」は「諸行無常」「諸法無我」として、仏教の旗印である「三法印」(または四法印)の一つに数えられています。
ここでは、主に「縁起」が土台となり、そこから「無常」と「無我」という存在の性質が導かれるという関係で理解することができます。
1. 縁起:万物の存在原理
縁起は「因縁生起」の略であり、「ものごとは、いくつもの原因に縁(よ)って、それらの結果として起こっている」という真理です。
この世に存在するすべてのものは、孤立して存在するものは一つもなく、因(直接的な原因)と縁(因が結果を生むための条件)によって成り立っていると説かれます。
縁起の教えは、因と縁と果(結果)が複雑に関係しあい、「もちつもたれつの状態」をつくっていることを示しており、「これある故にかれあり、これ起こる故にかれ起こる、これ無き故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅す」という相依相関の関係として説明されます。
仏陀の教えの基礎は、この世に偶然に起こることは何もないという基本の教えの上に成り立っており、すべてのことには原因がある(カルマの法則、原因と結果の法則)と教えられました。
この原因と結果の法則は、広範な意味で縁起の考え方と関連しています。
2. 縁起から導かれる無常
すべての存在が、常に変化する因と縁(条件)に依存して成り立っている(縁起)ため、永遠不変の状態で留まっているものはありません。
この「すべては常に変わり続ける」という真理こそが無常(アニッチャ)です。
ソースは、「この世のすべてが移ろい行くのは、すべての存在がつながりあい、支えあっているから」であると説明しています。
- 無常は、「三つの真理」のうちで最も重要なものとされています。
- 「諸行無常」として表現され、この世のすべての現象(行)は常住不変なものではない、人生ははかなく無常であるという仏教の根本思想を表します。
- 無常は、生・老・病・死をはじめとするさまざまな人生苦から目をそらすことなく、「絶対的なものと思い込みすぎてしまうことに『待てよ』と考える心を常に持つこと」の大切さを教えます。
3. 無常から導かれる無我
無我(アナッター)は、「あらゆる事物には、永遠・不変な本性である我(が)がない」という教えです。
すべては縁起の法則によって常に変化し続けている(無常)がゆえに、独立した不変の実体(魂や本性としての「我」)を持ち得ません。
- 「我(われ)」と呼ばれる個人の存在でさえも、単なる「偶然のよせ集め」によって生起した能力であり、その根本は明らかではない(無明)ため、本当の主人公ではないとされます。
- 無我の認識は、「我というものでさえも常に移ろっている」という真理に基づいています。
- この真理に目覚めることは、死後に生まれ変わる「魂」がないと知ることで、生死問題の根本的な解決につながると説かれます。
4. 三者の関係と最終的な目的
縁起・無常・無我の三者は、「縁起」という万物の存在法則が、「無常」という現象界の移ろいやすさを生み出し、その結果として、何ものも「無我」である、という論理的な連関を持っています。
この三つの真理を理解し、体得することの最終的な目的は、苦しみからの解放(解脱、涅槃)にあります。
無常であり無我であるという現実(真如)を知らないこと(無明)が、苦悩の根本にあると説かれています。
- 我々は、対象としての自我(我)やもの(法)を「有るもの」と考え、それに執着(しゅうじゃく)し、引きずられて苦しみを増していきます。
- 仏陀の教えは、この「執着の苦しみ」から解放させるという極めて実践的な目的のために、実体的存在(我や法)の否定(無我、空)を説いたものです。
したがって、仏陀の教えにおいては、縁起によって無常が成り立ち、無常によって無我が証明され、この三つの真理を深く理解することで、苦悩の原因である執着から離れ、精神の平安(涅槃寂静)を得ることを目指す、という形で相互に結びついています。