皆さん、おはようございます。こんにちは。こんばんは。今年もこの投稿で最後になります。今年は、いい年でしたでしょうか?
今年最後の投稿は「阿僧祇(あそうぎ)」です。毎年暮れにはいろんな数字がたくさん出てきますね。そんな話題です。
私たちが日常で使う数字は、せいぜい何兆、何京といったところでしょうか。
インターネットのトラフィック量や国家予算など、大きな数に触れる機会はありますが、それでも有限の範囲にとどまります。
しかし、仏教の世界には、私たちの想像をはるかに超える「数えきれない数」を表す言葉があります。
それが今回ご紹介する「阿僧祇(あそうぎ)」です。
耳慣れない言葉かもしれませんが、これは仏教の奥深さ、そして私たちが生きる時間の感覚を問い直す、示唆に富んだ概念なのです。
「阿僧祇」は、サンスクリット語の「asaṃkhya」を音写したもので、「数えられない」「無数」という意味を持っています。
接頭語の「a-」は「~でない」という否定を意味し、「saṃkhya」が「数える」という意味ですから、まさに「数えることができない」という状態を表しているわけですね。
日本語の「無量」や「無数」といった言葉も、この「阿僧祇」のニュアンスをよく伝えています。
私たちが普段「無限大」と口にするときに近い感覚かもしれません。
時代と共に移ろった阿僧祇の数値
この「阿僧祇」、ただ漠然と「数えきれない」というだけでなく、実は具体的な数の単位としても用いられてきました。
しかし面白いことに、その数値は時代や文献によって大きく異なるんです。
例えば、現代では10の56乗とされることが多いですが、江戸時代の数学書『塵劫記(じんこうき)』の初版では10の31乗、後の版では10の64乗とされています。
また、中国の数学書『算学啓蒙(さんがくけいもう)』では10の104乗と記されるなど、その値はまるで生き物のように変化してきたのです。
なぜこれほどまでに数値が変動するのでしょうか。
それは、当時の人々が想像しうる最大の数を、時代ごとに表現しようとした結果だと言えるでしょう。
現代のように指数表記が確立していなかった時代、途方もない数を表現する試行錯誤の歴史がそこにはあります。
例えば、仏典『倶舎論(くしゃろん)』では10の59乗と解釈されることもありますが、これはその解釈自体が複雑で、10の52乗と誤読されるケースもあったほどです。
まさに、数字の奥深さと、その伝達の難しさを物語っていますね。
仏教における「阿僧祇」:無限の修行と時間
この「阿僧祇」が仏教の世界で特に重要な意味を持つのは、「劫(こう)」という時間の単位と組み合わされるときです。
「劫」もまた、非常に長い時間を意味する単位で、例えるなら世界の生成から消滅までにかかるような、私たちの想像を絶する期間を指します。
そして、「阿僧祇劫」となると、それはまさに「無限に長い時間」を意味することになるのです。
現代人がデジタル時計の「秒」を気にしながら生きるのとは対照的な、途方もない時間のスケールがここにあります。
仏教において、「阿僧祇劫」は、仏陀(ブッダ)が悟りを開くまでに要した修行の時間の長さを表現するのに使われます。
特に有名なのが「三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)」という概念です。
これは、菩薩(ぼさつ)が仏陀(ブッダ)となるために、膨大な期間にわたる修行を重ねることを示しています。
具体的には、十信(じっしん)から十迴向(じゅうえこう)までの最初の四十段階を終えるのに一阿僧祇劫、その後の七地(しちじ)に至るまでが二阿僧祇劫、そして第八地から十地に至るまでが三阿僧祇劫とされています。
想像してみてください。
これほどまでの長い期間、ひたすら衆生を救うために修行を続ける。
それは、もはや私たちが「努力」という言葉で表現できる範疇を超えています。
途方もない時間の中での、決して諦めない、ひたすらな精進の積み重ね。
この「三阿僧祇劫」という表現には、悟りという究極の目標に到達するためには、いかに計り知れないほどの時間と努力が必要であるかという、仏陀(ブッダ)の教えが込められているのです。
現代社会で「継続は力なり」と言いますが、その究極の形がここにあると言えるでしょう。
このような「阿僧祇劫」という概念は、『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」や「見宝塔品(けんほうとうほん)」など、多くの重要な経典にも登場します。
そこでは、仏陀(ブッダ)が悟りを開いてからの計り知れない長さを表すのに使われ、仏の永遠の存在と、衆生を救い続ける慈悲の心が表現されています。
また、『華厳経(けごんきょう)』の「阿僧祇品(あそうぎぼん)」では、この「阿僧祇」を含む様々な大きな数が詳しく説かれ、菩薩の智慧が人間の理解を超えるほどの広大さを持つことが示されています。
現代社会と「阿僧祇」の視点
さて、現代を生きる私たちにとって、「阿僧祇」という概念はどのような意味を持つのでしょうか。
私たちは情報過多の時代に生き、短い時間で結果を求めがちです。
しかし、この「阿僧祇」が示す時間のスケールを前にすると、私たちの日常的な時間の感覚がいかに狭いものか、改めて気づかされます。
長期的な視点を持つことの重要性、あるいは、すぐに結果が出なくとも、地道な努力を続けることの大切さを、この仏教の言葉は静かに教えてくれるようです。
地球規模の環境問題や社会課題を考える際にも、「阿僧祇」の視点は有効かもしれません。
何十年、何百年というスパンで物事を捉え、行動の連鎖が未来に与える影響を想像する。
一つ一つの小さな行いが、途方もない時間の先に大きな変化をもたらす可能性を秘めている。
仏陀(ブッダ)が三阿僧祇劫という気の遠くなるような時間をかけて修行を積んだように、私たちもまた、日々の積み重ねの中に大きな希望を見出すことができるのではないでしょうか。
「阿僧祇」は単なる巨大な数字ではありません。
それは、時間や努力、そして智慧の無限の可能性を象徴する言葉です。
現代社会において、私たちはつい目先の成果や効率を追い求めてしまいがちですが、時にはこの「阿僧祇」の概念に立ち返り、より大きく、より長い視点から自身の生や、世界のありようを見つめ直してみるのも良いかもしれません。
仏教が私たちに問いかける、深遠な宇宙観と時間の哲学。
その一端が、この「阿僧祇」という響きの中に息づいているように感じられます。
今年も一年「仏陀の教え」を見ていただいてありがとうございます。来年も命が続く限り、体が動く限り書いていきたいと思います。皆さん良い年をお迎えください。
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