「挨拶」に隠された仏教の教え

仏陀(ブッダ)の教え ことば
Teachings of Buddha
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おはようございます。こんにちは、こんばんは、まずは、ご挨拶から。

このブログを開始するにあたって、まず最初に何を書こうかと思って、やはり最初は「挨拶(あいさつ)」から始めようと思います。このブログの趣旨は投稿ページ「「心穏やかな社会への羅針盤」へようこそ」に記載していますのでご一読ください。

このブログは、毎週火曜日と木曜日に更新していく予定にしています。投稿ページは不定期に更新予定です。ではよろしくお願いします。

「挨拶」という、私たちの日常に当たり前のように溶け込んでいる言葉。

朝の「おはようございます」から、別れの「さようなら」まで、人との関わりにおいて欠かせないこの習慣は、単なる言葉のやり取り以上の意味を持っています。
実は、この「挨拶」という言葉には、日本の仏教、特に禅の教えに深く根差した、奥深い歴史が隠されているのです。

私たちの社会生活において、挨拶は人間関係を築き、円滑にする上で極めて重要な役割を果たします。
そこには、相手への敬意や思いやり、そして日本の文化が大切にしてきた「和」の精神が込められています。
しかし、この日常的な行為が、かつては修行の一部であり、精神的な成長を促すための真剣な問いかけであったと知ると、その重みに改めて気づかされるのではないでしょうか。

「挨拶」の語源は、禅宗の専門用語である「一挨一拶(いちあいとくさつ)」に由来します。
これは、禅の師匠が弟子に問い(公案)を投げかけ、弟子がそれに応じる対話を通じて、悟りへの進捗度を測るという、まさに魂のぶつかり合いを意味していました。
師匠は弟子を「挨(おしつける、近づく)」ように問い、弟子は師匠に「拶(せまる、近づく)」ように答える。
この緊密なやり取りこそが、もともとの「挨拶」だったのです。
時を経て、この精神的な問いかけの概念が、広く一般的な言葉の交わし方、つまり「挨拶」へと変化していったと言われています。

仏教においては、言葉だけでなく、身体を使った敬意の表現も非常に大切にされます。
代表的なものに「合掌(アンジャリ・ムドラー)」があります。
これは、手のひらを胸の前で合わせるジェスチャーで、挨拶、感謝、別れなど、さまざまな場面で用いられます。
特に僧侶に対して行う際は、深い敬意を示すしるしとなります。
また、お辞儀も仏教において謙虚さと尊敬を示す重要な行為です。
お寺の本堂に入る際や、僧侶の前では、会釈から深い礼、さらには三度の五体投地(ひざまずいて額を地面につける)を行うこともあります。
お辞儀の深さによって、相手への敬意の度合いが示されるのです。

現代社会では、このような身体的な表現が希薄になりがちですが、日本のビジネスシーンやフォーマルな場では、今でもお辞儀が欠かせません。
これもまた、古くから培われてきた仏教的な敬意の精神が、形を変えて現代に息づいている証拠と言えるでしょう。
相手の存在を認め、敬意を払うという根源的な意味は、時代が変わっても色褪せることはありません。

お寺を訪れる際の作法も、仏教が私たちの日常に与える影響の具体例です。
山門をくぐる際には軽く一礼し、参道の端を歩くのが習わしです。
これは、中央が仏様や神様の通り道とされているためです。
手水舎(ちょうずや)があれば、まず左手、次に右手を清め、左手に水を受けて口をすすぎ、最後に柄杓を立てて残りの水で柄を清めます。
これらは、心身を清めてから仏様と向き合うという、敬虔な心を表す行為です。

お堂での作法としては、まずお賽銭を供養箱に入れます。
五円玉は「ご縁」に通じるとされ、縁起が良いとされていますね。
その後、軽く頭を下げて合掌し、心の中で静かに願い事をします。
神社のようには手を叩きません。
鐘や銅鑼があれば、静かに数回鳴らしてから合掌します。
これらは、外の世界の喧騒から離れ、自分の内面と向き合い、仏陀(ブッダ)の教えに心を寄せる大切な時間となります。

日常生活における仏教の影響は、他にもたくさん見られます。
例えば、お盆の時期には、ご先祖様をお迎えし、感謝の気持ちを捧げるために家族が集まります。
お墓参りをし、仏壇を清め、僧侶に読経をお願いすることも一般的です。
また、大晦日の夜には、全国の仏教寺院で「除夜の鐘」が百八つ鳴らされます。
これは、私たちを苦しめる百八の煩悩を払い除け、清らかな心で新年を迎えようという仏教の教えに由来する行事です。

さらには、日本における葬儀の約9割が仏式で行われるという事実も、仏教が私たちの死生観に深く根差していることを示しています。
各家庭にある小さな仏壇は、ご先祖様を祀り、日々の感謝や報告をする場所として大切にされています。
これらの習慣は、仏教が単なる宗教にとどまらず、日本の文化や人々の心の在り方に深く影響を与え続けていることを物語っています。

世界に目を向けると、仏教の挨拶にも多様な形があります。
例えば、中国の仏教徒は「阿弥陀仏(アミートゥオフォ)」と唱えることで、挨拶だけでなく感謝や謝罪の気持ちをも表します。
これは、阿弥陀仏の名前とつながり、心の平和を育むという意味合いも持ちます。
チベットでは「タシデレ(幸運が訪れますように)」、スリランカでは「アーユボワン(長寿を祈ります)」といった言葉が交わされます。
これらの言葉の背景には、すべての人々の幸福を願う仏教の慈悲の精神が通底しています。

日本の特定の宗派における挨拶の習慣も興味深いものです。
例えば、真宗では、お寺に入る際や出る際に阿弥陀仏に向かって「往来(おうらい)」と呼ばれる浅いお辞儀(約15度)を行います。
お焼香の際には、合掌し、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、心を込めて香を供えます。
ここで大切なのは、火を吹き消すのではなく、手で煽ぐか、指でつまんで消すこととされています。
これらは、阿弥陀仏への感謝と尊敬の念を表すための、丁寧な作法です。

「挨拶」という言葉が持つ、禅における深い問いかけの意味から、日常生活における様々なお辞儀や作法、そして命の尊厳を考える機会としての祭りや儀式まで、仏教は日本の社会に計り知れない影響を与え、私たちの文化や精神性の根幹を形作ってきました。

現代に生きる私たちにとって、この「挨拶」の持つ深い意味を再認識することは、単に礼儀作法を学ぶだけでなく、相手への敬意、自己を見つめる心、そして社会との調和を重んじる、仏陀(ブッダ)の教えに触れることにつながるのではないでしょうか。
日々の「挨拶」の中に、私たちが忘れてはならない大切な心が息づいていることを、改めて感じてみませんか。