私たちは普段、「ありがとう」という言葉を何気なく口にしていますね。
誰かに親切にされた時、贈り物をいただいた時、あるいは何かをしてもらった時。
この「ありがとう」という言葉の根源にある「有り難い」という響きには、実は仏教の深い洞察が込められていることをご存知でしょうか。
現代社会の忙しい日々の中で、私たちは多くのことを「当たり前」と捉えがちですが、「有り難い」という言葉の真の意味を紐解くことで、私たちの日常はより豊かな色彩を帯びてくるかもしれません。
「有り難い」という言葉は、文字通り「有ることが難しい」と書きます。
つまり、「滅多にない」「稀である」「存在するのが難しい」といった意味合いが込められているのです。
このように、簡単に手に入らないからこそ、その存在が貴重であり、もったいないと感じ、畏敬の念さえ抱く。
そこから自然と湧き上がってくるのが、感謝の気持ちだと言われています。
私たち日本人が日常的に使う「ありがとう」という言葉が、単なる感謝の表現に留まらない、はるかに深遠な意味を含んでいるのは、こうした語源があるからなのですね。
仏陀(ブッダ)の教えの中では、特に二つの事柄が「有り難い」ものとして強調されています。
その一つが、「人間としてこの世に生まれることの稀少性」です。
人間として生まれることは、想像を絶するほど稀で奇跡的なことだと説かれます。
有名な例え話に「盲亀の浮木(もうきうぼく)」があります。
これは、百年に一度しか海面に顔を出さない盲目の亀が、広大な大海原に漂う流木に空いた穴に、たまたま頭を通すことの難しさに喩えられます。
それほどまでに、私たちは奇跡的な確率で人間として生を受けているのですね。
そして、もう一つ「有り難い」とされるのが、「仏法、すなわち仏陀(ブッダ)の教えに出会うこと」です。
人間として生まれたことだけでも奇跡なのに、さらにその中で、真理を説く仏陀(ブッダ)の教えに巡り合う機会を得られることは、まさに至上の喜びであるとされます。
現代において、私たちが手軽に仏教の教えに触れることができるのは、決して当たり前のことではありません。
多くの先人たちがその教えを守り、伝え続けてくれたからこそ、今、私たちもその恩恵に浴することができるのです。
この「有り難い」という感覚は、現代を生きる私たちにとって、心の豊かさを見つけるヒントになり得ます。
情報過多で移り変わりの激しい現代社会では、私たちは常に「もっと良いもの」「もっと便利なもの」を追い求めがちです。
しかし、少し立ち止まって周囲を見渡せば、実は私たちの周りには「有ることが難しい」にもかかわらず、当たり前のように享受しているものがたくさんあります。
例えば、今いる場所で安全に過ごせること、温かい食事をいただける恵み、大切な人とのつながり、そして何より、今日という一日を生きていることそのものも、かけがえのない「有り難い」ことなのです。
仏教、特に浄土真宗の教えでは、この「有り難い」という気持ちがさらに深く掘り下げられます。
食前に唱える「いただきます」や食後の「ごちそうさま」は、私たちの命を支えるために犠牲になった動植物の命への感謝、そして食事を用意してくれた人々への感謝の気持ちを表しています。
また、阿弥陀仏の広大な慈悲に感謝し、「南無阿弥陀仏」と唱えることも、深い「有り難い」という心の発露とされています。
これは、自分一人ではどうしようもない愚かな私たちを救おうとする仏様の深い願いへの応えなのですね。
「感謝」という言葉も「有り難い」と通じるところがありますが、語源を紐解くと少しニュアンスが異なります。
「感謝」は「感(感じる)」と「謝(わびる、心を解き放つ)」から成り立っています。
何かを受け取った際に、その恵みを感じ取り、それによって生じた心の重荷(借り)を解き放つという側面があります。
一方で「有り難い」は、その事柄そのものが稀であること、得がたいことへの驚きや畏敬の念が根底にあります。
より根源的な、存在に対する深い感動が込められていると言えるでしょう。
私たちは日々、様々な情報や刺激に囲まれて生きています。
SNSを見れば、他人の華やかな生活が目に飛び込んできて、つい自分と比較して「足りない」と感じてしまうこともあるかもしれません。
しかし、「有り難い」という視点を持つことで、私たちは「持っていないもの」ではなく「既に持っているもの」に目を向けられるようになります。
健康な体、今日の天気、美味しい一杯のコーヒー、親しい友人の笑顔。
これらは全て、よくよく考えてみれば「有ることが難しい」奇跡の連続なのです。
歴史を振り返っても、「有り難い」という言葉は古くから日本語の中に息づいていました。
『万葉集』にもその原型が見られるほどで、時代とともに「めったにない貴重なこと」「畏れ多いこと」といった意味合いが深まっていきました。
この言葉が持つ歴史の重みは、日本人の感性の中に、はるか昔から「稀なものへの尊び」や「与えられたことへの感謝」という精神が脈々と受け継がれてきたことを示唆しています。
現代においても、この普遍的な価値観は、私たちが心の平安と喜びを見出すための大切な鍵となるはずです。
私たちは、現代社会の中で忘れがちな「有り難い」という心の眼差しを取り戻すことで、日々の喧騒に流されず、内側から満たされる感覚を得られるのではないでしょうか。
それは、特別な出来事を待つのではなく、日常の中に隠された小さな奇跡を見つけ出す旅のようなものです。
信号が青だったこと、電車に間に合ったこと、今日も健康でいられること。
一つ一つの「有ることが難しい」ことに気づき、心から「有り難い」と感じる習慣を育むことが、私たち自身の心を豊かにし、ひいては周囲の人々との関係性をも温かくしていくことでしょう。
最後に、仏陀(ブッダ)が私たちに教えてくださった「有り難い」という心の在り方は、決して難しい修行を要するものではありません。
ただ、日々の生活の中で、意識的に立ち止まり、今ここにあるものの尊さ、稀少性に心を向けるだけで良いのです。
そうすることで、世界の見え方が変わり、日常が感謝と喜びに満ちた、かけがえのないものに感じられるはずです。
この「有り難い」という仏教の教えを、現代に生きる私たち自身の心の羅針盤として、大切にしていきたいものですね。
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