皆さんは「行脚(あんぎゃ)」という言葉を耳にしたことがありますか?少し古風な響きかもしれませんが、これは仏教、特に禅宗において、僧侶や修行僧が精神的な鍛錬のために、ひたすら歩いて各地を巡る伝統的な旅を指します。
文字通り「足で歩く」ことを意味するこの行いは、現代に生きる私たちにも通じる、大切な心のあり方を教えてくれるように思います。
行脚は、かつて多くの若き修行僧(雲水)にとって、初めての寺院に入るための通過儀礼でもありました。
見知らぬ土地を笠をかぶり、白木綿の脚絆に草鞋、袈裟をまとい、頭陀袋(ずだぶくろ)や網代笠(あじろがさ)を身につけ、剃刀や鉄鉢(てっぱつ)、そして藁の雨合羽を携えて歩く。
その姿は、まるで現代のバックパッカーのようでもありますが、その目的は世俗の欲から離れ、ひたすら自己と向き合い、教えを求めることにありました。
寺院にたどり着くと、雲水は紹介状を差し出し、すぐに受け入れられるわけではありません。
まず「旦過寮(たんがりょう)」と呼ばれる場所で数日間の待機期間を過ごし、その後「旦過詰(たんがづめ)」という試用期間を経て、ようやく僧堂への入門が許されるのです。
この厳格なプロセスは、修行への覚悟と謙虚さを試すものであり、まさに人生における「門を叩く」ことの重みを教えてくれます。
行脚の旅では、旅の途中で衣食住の全てを人々の施し(托鉢)に頼ります。
野宿をしたり、軒先を借りたりしながら、日々を過ごすのです。
これはただ空腹を満たすためだけでなく、施しを与える側もまた功徳を積むことができる、という相互扶助の精神が根底にあります。
私たちも日々の暮らしの中で、見知らぬ誰かからの小さな親切に触れることがありますが、それは仏教の教えにある「布施」の精神とどこか通じるものがあるのではないでしょうか。
この行脚という修行は、何年も続くことが珍しくありませんでした。
例えば、江戸時代初期の禅僧である盤珪永琢(ばんけいようたく)は、瑞応寺を出た後、実に4年間もの間、行脚を続けたと言われています。
その長い道のりの中で、彼は多くの師や仲間と出会い、あるいは独りで煩悩と向き合い、肉体と精神を極限まで鍛え抜くことで、悟りへと近づいていったのです。
仏教の開祖である仏陀(ブッダ)もまた、もともとは王子という恵まれた身分を捨て、出家して真理を求める旅に出た方でした。
彼の弟子たちもまた、托鉢をしながら各地を巡り、仏陀(ブッダ)の教え(法)を広めていきました。
この初期仏教における遊行の精神は、行脚の原点とも言えるでしょう。
禅宗における「雲水」という言葉は、「行雲流水(こううんりゅうすい)」という四字熟語に由来しています。
これは、空を行く雲や流れる水のように、一つの場所に執着せず、自由な心で変化に対応していく生き方を表します。
行脚は、まさにこの「行雲流水」の精神を体現する修行であり、現代社会を生きる私たちにとっても、固定観念にとらわれず、柔軟な心で変化を受け入れることの大切さを教えてくれます。
行脚の目的は多岐にわたります。
優れた師や友人(善知識)を求めて旅をすること、あるいは自らが体得した教えを人々に広めること。
そして何よりも、世俗的な執着や煩悩を断ち切り、心身を鍛え、悟りを開くことが最終的な目標です。
この自己変革への探求心は、時代や文化を超えて、多くの人々に共感を呼ぶでしょう。
行脚はまた、仏教におけるさまざまな宗派で、異なる形でその哲学的な意味合いを持っています。
禅宗では、物質的なものから離れ、謙虚さをもって直接的な体験を通じて真理を掴む「修証一如(しゅしょういちにょ)」の精神を重んじます。
これは、頭で考えるだけでなく、五感を使い、体を動かすことでしか得られない悟りがあるという思想です。
一方、上座部仏教(テーラワーダ仏教)では、仏陀(ブッダ)がそうであったように、家を離れた遊行僧の生活は、この世の執着を捨てるための修行とされます。
また、チベット仏教を含む大乗仏教では、菩薩(ぼさつ)が自らの悟りを後回しにして、衆生を救うために世界を旅するという「方便(ほうべん)」と「慈悲(じひ)」の精神が行脚の根底に流れています。
歴史を振り返れば、日本だけでなく世界各地の仏教僧が、行脚に似た厳しい旅を経験してきました。
7世紀の中国の僧、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、仏典を求めてはるかインドまで17年間もの長旅を続けました。
また、明治から昭和にかけて活躍した日本の僧、河口慧海(かわぐちえかい)は、日本の仏教の世俗化に不満を抱き、秘境チベットにまで足を運び、稀少な経典を探し求めたのです。
日本におけるもう一つの有名な行脚の形といえば、比叡山延暦寺の「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」が挙げられるでしょう。
これは、7年間かけて計1000日、毎日数十キロを歩き、時には断食、断水、不眠不臥という極限の行を行うというものです。
この修行を成し遂げた僧は「生き仏」として崇められ、その精神力と悟りの深さは計り知れません。
行脚はまた、僧侶だけでなく、広く一般の人々にも開かれた「心の旅」として受け継がれてきました。
その代表が、四国八十八ヶ所巡り、いわゆる「お遍路さん」です。
真言宗の開祖である弘法大師(空海)ゆかりの88の寺院を巡る約1200キロの道のりは、伝統的に徒歩で30日から60日をかけて行われます。
多くの人々が、精神的な目的や病気平癒、あるいは故人への供養のためにこの旅に出ます。
現代のお遍路さんは、必ずしも徒歩にこだわりません。
車やバス、自転車や公共交通機関を利用する人も増え、旅のスタイルは多様化しています。
それでも、遍路道を歩くことで得られる一体感や、見知らぬ土地での出会い、そして何よりも自分自身と向き合う時間は、時代が変わっても変わらない旅の醍醐味です。
熊野古道もまた、行脚の精神を受け継ぐ日本の重要な巡礼路です。
紀伊半島の山深い道を、千年以上もの間、皇族や貴族、そして庶民に至るまで、多くの人々が歩いてきました。
「熊野三山」と呼ばれる三つの聖地を結ぶこれらの道は、世界遺産にも登録され、現代においても静かな内省と自然とのつながりを求める人々を惹きつけています。
現代社会では、日々の忙しさの中で自分を見つめ直す時間がなかなか持てません。
しかし、近年では、僧侶が指導する「禅瞑想ハイキングリトリート」や「ウォーキングリトリート」といった新しい形の行脚も登場しています。
これらは、自然の中を歩きながら瞑想やマインドフルネスを実践し、歴史ある禅寺に宿泊して坐禅や読経を体験するものです。
このようなリトリートは、伝統的な修行としての行脚とは少し異なりますが、現代人が忙しい日常から離れて、心身のリフレッシュや精神的な充実を求める場となっています。
都会の喧騒から離れ、静かな自然の中で歩き、坐ることで、忘れかけていた本来の自分を取り戻す機会を与えてくれるでしょう。
「行脚」という言葉は、仏教の専門用語に留まらず、より広い意味で使われることもあります。
例えば、政治家が選挙運動のために全国各地を巡ることを「選挙行脚」と呼んだり、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅も、その精神性から「行脚」の一種とみなされたりします。
これは、特定の目的を持って各地を巡るという行為そのものに、行脚が持つ「探求」や「鍛錬」の精神が宿っていると認識されているからかもしれません。
結局のところ、行脚が私たちに問いかけているのは、人生という旅路をどのように歩むべきか、ということではないでしょうか。
物質的な豊かさばかりを追い求めるのではなく、時には立ち止まり、あるいは歩きながら、自分の内面と向き合い、他者とのつながりを大切にし、そして謙虚な心で学び続けること。
伝統的な行脚の姿は時代と共に変化していますが、その根底に流れる「自己を見つめ、真理を求める」という精神は、現代社会を生きる私たちにとっても、決して色褪せることのない普遍的な価値を持っています。
皆さんも、日々の生活の中で、時には「心の行脚」に出かけてみてはいかがでしょうか。
きっと、新しい発見や、心豊かな気づきが待っているはずです。
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