「あばた」に宿る仏教の智慧:言葉が織りなす過去と現在

仏陀の教え ことば
The Teachings of Buddha
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「あばた」という言葉を聞いて、皆さんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? もしかしたら、少し古めかしい表現だと感じる方もいるかもしれませんね。
顔に残った小さな跡を指すこの言葉、実は私たち日本人の暮らしの中に深く根付いた、仏教に由来する意外な歴史を持っているのです。
今日は、そんな「あばた」にまつわる物語を紐解きながら、言葉が持つ奥深さや、仏教が現代社会に与える影響について、一緒に考えてみませんか。

私たちが何気なく使う「あばた」という言葉のルーツは、はるかインドのサンスクリット語「アルブダ(arbuda)」にたどり着きます。
この「アルブダ」という言葉は、もともと「腫れ物」や「水疱」といった意味を持っていました。
皮膚にできるプツプツとした膨らみを指す言葉だったのですね。
ここまでは、単なる病状を表す言葉として理解できます。
しかし、仏教の世界では、この「アルブダ」が非常に重い意味を持つようになります。

仏教には、「八寒地獄(はちかんじごく)」という概念があります。
これは、その名の通り極度の寒さで苦しむ地獄のことで、私たちが嘘をついたり、心ない悪口を言ったり、あるいは聖者を軽んじるような言葉を吐いたりした者が落ちるとされる場所です。
その八寒地獄の一つに「阿浮陀地獄(あぶだじごく)」という地獄があります。
まさに、この「阿浮陀」こそが、サンスクリット語の「アルブダ」を音写した言葉なのです。
この地獄では、想像を絶するような厳しい寒さにさらされ、その結果、全身に「あばた」のような腫れ物ができてしまうという、あまりにも痛ましい苦しみが描かれています。
仏陀(ブッダ)の教えは、私たちが言葉や行動にどれほど気をつけなければならないかを、こういった形で私たちに示しているのですね。
このような地獄の描写は、単に人々を恐れさせるためだけではなく、むしろ「現世での言動が未来にどう影響するか」という因果応報の道理を私たちに深く考えさせるためのものでしょう。
現代社会においても、安易な発言がSNSなどで瞬く間に拡散され、思わぬ結果を招くことがあります。
言葉の重みは、時代を超えても変わらない普遍的なテーマなのですね。

こうして、もともと「腫れ物」や「水疱」を意味する仏教用語だった「アルブダ」が、「阿浮陀」を経て「あばた」と日本語に変化していきました。
日本においては、特に天然痘、つまり疱瘡(ほうそう)が治った後に顔や体に残る瘢痕(はんこん)、痘痕(とうこん)を指す言葉として定着していったのです。
天然痘が猛威を振るっていた時代、多くの人々がこの病と向き合い、その痕跡である「あばた」は、非常に身近なものでした。
現代では想像しにくいかもしれませんが、かつては人々の顔に「あばた」があるのはごく普通の光景だったのですね。
この言葉が、もとは僧侶の間で天然痘の後遺症を指す隠語として使われ、その後、広く日常語として浸透していったという経緯も、言葉の持つ多様な側面を示しています。

その証拠に、日本のことわざに「あばたもえくぼ」という言葉があります。
これは「愛する相手には、顔に残った『あばた』でさえも、まるで可愛らしい『えくぼ』のように見えてしまう」という意味で、愛情の深さを表現する際に使われます。
このことわざが現代にまで残っていること自体が、「あばた」が私たちの社会において、いかに日常的な存在であったかを物語っています。
容姿の一部として受け入れられ、さらには愛情の対象にまでなり得るという、当時の人々の価値観が垣間見えるようで、とても興味深いですね。
私たちは、ともすれば完璧を求めがちな現代に生きていますが、このことわざは、相手の全てを受け入れる深い慈しみの心、仏教でいうところの「慈悲」にも通じる教えをそっと伝えてくれているようにも思えます。

現代社会において、天然痘は医学の進歩によって幸いにも地球上から撲滅されました。
そのため、実際に「あばた」を目にする機会はほとんどなくなりました。
しかし、言葉としては、この「あばたもえくぼ」のように慣用句として残り、私たちの言語生活の一部として息づいています。
物理的な痕跡は消えても、言葉の痕跡は残り続ける。
これは、まるで過去の記憶が形を変えて現代に伝えられているかのようです。
言葉一つ一つに、文化や歴史が詰まっているのだと改めて感じさせられますね。
私たちは、日々多くの情報に触れていますが、その中で言葉の背景に思いを馳せることは、表面的な情報だけでなく、その奥にある深い意味を理解するための大切な手がかりとなるでしょう。

さて、「あばた」と音は似ているけれど、全く異なる概念を持つ言葉に「アバター」があります。
この「アバター」もまた、サンスクリット語の「アヴァターラ(avatāra)」を語源としています。
仏教漢語では「権化(ごんげ)」や「化身(けしん)」と訳されるこの言葉は、真の世界の存在、例えば神仏が、仮の姿で人間界に現れることを指します。
インドのヒンドゥー教では、仏陀(ブッダ)もヴィシュヌ神の十の化身、すなわちアバターの一つと見なされることもあります。
このように、同じインドの言葉をルーツに持ちながらも、意味が大きく異なるのは面白いですね。
現代の私たちは、スマートフォン一つで仮想空間上の「アバター」を自在に操り、社会とコミュニケーションを取っています。
この「アバター」が持つ「化身」という意味合いは、デジタル時代を生きる私たちにとって、ますます身近なものになっていると言えるでしょう。

現代では、「アバター」という言葉は、インターネットやゲームなどの仮想世界で、私たち自身の分身となるキャラクターを指すことが一般的です。
これは、真実の存在が仮の姿で現れるという「化身」の概念が、デジタル空間へと発展的に応用されたものと考えることもできます。
かつて神々が人間界に降り立つ「アバター」という思想が、今や誰もが仮想空間で自分自身を表現するためのツールとして使われている。
言葉の意味が時代とともに変化し、現代社会のニーズに合わせて形を変えていく好例と言えるでしょう。
「あばた」と「アバター」、発音は似ていても、その背景にある文化や時代性は、大きく異なっていることが分かります。
しかし、どちらも私たちの存在やあり方について、示唆を与えてくれる言葉であることは共通しています。

仏教は、今からおよそ1400年ほど前に日本に伝来して以来、私たちの文化や言語に計り知れない影響を与えてきました。
「世界」「世間」「変化」「智慧」といった、私たちが日常的に使う多くの言葉も、実は仏教に由来するものです。
「あばた」もまた、その長い歴史の中で、私たち日本人の言葉として定着していった数多くの仏教語彙の一つと言えるでしょう。
言葉の奥深さを知ることは、そのまま私たちの文化や精神性を理解することにもつながります。
仏陀(ブッダ)の教えが、これほどまでに私たちの日常に浸透していることに驚かされますね。
言葉は単なる記号ではなく、過去から現在へと続く思想や価値観を運ぶ器のようなものです。

私たちは日々、意識せずにたくさんの言葉を使っていますが、その一つ一つに歴史があり、文化があり、そして人々の智慧が込められています。
「あばた」という一見ネガティブに聞こえる言葉でさえ、その語源をたどれば、仏教が説く因果応報や道徳的な教え、そして人々の愛おしむ心が込められた、豊かな意味を持つことに気づかされます。
現代に生きる私たちにとって、言葉の持つ背景に思いを馳せることは、過去から現在、そして未来へと続く知恵の連鎖を感じる、大切な機会となるのではないでしょうか。
私たちが今、目の前の言葉をどう捉え、どう使いこなすか。
それは、仏陀(ブッダ)が説いたように、一人ひとりの心の持ちようが、未来を形作る大切な要素であることと、どこか重なってくるように思えてなりません。