私たちが普段「安心(あんしん)した」と言うとき、それは「心配事がなくなり、ホッとする」ような、一時的な心の落ち着きを指すことが多いでしょう。
しかし、日本の仏教が深く説く「安心(あんじん)」という言葉には、これよりもはるかに深く、揺るぎない心の境地が込められています。
この「安心(あんじん)」は、単なる心配のなさではなく、仏陀(ブッダ)の教えに触れ、信仰や実践を重ねる中で得られる、内面からの平和と不動の心を表す、とても大切な概念なのです。
仏陀(ブッダ)が説かれたように、私たちの生きる世界は、病いや老い、死といった避けられない苦しみに加え、日々の不安や恐れに満ちています。
仏教における「安心(あんじん)」は、こうした具体的な苦難がなくなることを目指すのではなく、それらのただ中にあっても、不安や苦しみを乗り越え、心を安んじて生きていける境地を開くことを目的とします。
これは、外の状況に左右されない、心の奥底からの静けさであり、まるで嵐の中の灯台のように、私たちを支える光となるでしょう。
この心の安らぎや不動の境地は、仏陀(ブッダ)の教えに対する深い信心や、日々の実践を重ねる中で自ずと開かれるものです。
それはまた、悟りの境地へとつながる道のりでもあります。
興味深いのは、「安心(あんじん)」が外部に求めるものではなく、本来、私たち自身の内面に備わっているものに気づいていく過程だと説かれる点です。
まるで、探し物をしていたけれど、実は最初から自分のポケットの中にあった、というような感覚に近いかもしれませんね。
「安心」という言葉のルーツをたどると、もともと儒教の「安心立命(あんじんりゅうめい)」、つまり天命を知り、心を落ち着かせ、運命に身を委ねて平静を保つ、という教えに由来すると言われています。
この言葉が仏教、特に禅宗で用いられるようになり、中国禅の初祖である達磨大師が「壁観(へきかん)」という座禅法を通して仏道と一体になる境地を表す際に使われたとされます。
歴史的な背景を知ると、より一層、その重みを感じられますね。
さて、日本の仏教の中でも、特に「安心(あんじん)」の概念を重視する宗派がいくつかあります。
その代表格が浄土宗や浄土真宗です。
これらの宗派では、阿弥陀仏(あみだぶつ)の広大な慈悲と、すべての人々を救済しようとする「本願(ほんがん)」という誓いを信じ、疑うことのない心こそが「安心(あんじん)」であると説かれます。
私たちは日々の生活の中で多くの選択に迷い、不安を抱えますが、阿弥陀仏にすべてを委ねることで得られる心の拠り所、それが「安心(あんじん)」なのです。
浄土宗においては、この「安心(あんじん)」が、極楽浄土への往生を心から願い、阿弥陀仏の導きにすべてを任せることと結びついています。
そして、この「安心(あんじん)」から自然と湧き上がる喜びの言葉が、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏であるとされます。
さらに、浄土への往生を確かなものとするために、「三心(さんじん)」という三つの心が備わっていることが重要だと言われます。
それは、真に浄土を願う「至誠心(しじょうしん)」、深く阿弥陀仏の救いを信じる「深心(じんしん)」、そして自らの善行の功徳を浄土往生のために回し願う「回向発願心(えこうほつがんしん)」です。
特に、浄土宗の西山派などでは、「他力の安心(あんじん)」という考え方が強調されます。
これは、私たち自身の努力(自力)によって安心を得るのではなく、阿弥陀仏の本願と名号(念仏)の力(他力)によってこそ、この揺るぎない心の平和がもたらされる、という教えです。
また、「安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)」という書物も、浄土真宗において非常に重要な意味を持ちます。
この書では、阿弥陀仏の計り知れない願力によって、私たちが仏となる未来はすでに成就していると説かれ、自力による修行の必要はなく、仏陀(ブッダ)によって与えられた救いを信じ、念仏を唱えることが、この真実への目覚めであり、解放の表現であるとされています。
一方、禅宗における「安心(あんじん)」は、仏陀(ブッダ)の教えによって恐怖や不安から解放され、悟りの境地に到達し、心の安らぎを得て、主体性を確立することを意味します。
浄土系の安心が「信じる心」に重きを置くのに対し、禅宗では自身の「実践」を重視します。
坐禅を通して心の安らぎや不動の境地を目指すのが特徴で、現代社会でマインドフルネスとして注目される瞑想にも通じるものがありますね。
禅宗で「安心(あんじん)」を語る上で欠かせないのが、中国禅の初祖・達磨大師と二祖・慧可(えか)大師の有名な問答です。
慧可大師が「私の心はまだ安らかではありません。
どうか師よ、私の心を安んじてください」と訴えたのに対し、達磨大師は「その心とやらを、ここへ持ってきなさい。
私がそれを安んじてやろう」と答えました。
慧可大師がいくら探しても「心は捉えどころがない」と気づき、「探し求めましたが、どうしても見つかりません」と答えると、達磨大師は「そうか。
私はすでに、お前の心を安んじてやったぞ」と告げたといいます。
この問答は、「心」というものが、実体として固定されたものではなく、刻々と変化する思考や感情の連なりであるという洞察を示しています。
不安や苦しみの原因となる「私」という固定観念や執着を手放すことで、本来備わっている清らかな心が現れ、それが「安心(あんじん)」の境地につながる、と禅宗は教えます。
自分の心がどこにあるのかと探しても見つからないことを知ることが、まさに心を安んじる方法だというわけですね。
また、達磨大師は「二入四行(ににゅうしぎょう)」という教えの中で「安心(あんじん)」への道筋を示しました。
「理入(りにゅう)」とは、仏教の真理を理解し、自我への執着を手放し、すべての存在が無常であり、固定された「私」というものがないという「無我」の境地を悟ることで、自由で穏やかな心を得ることを指します。
「行入(ぎょうにゅう)」は、その悟りを日常生活の中で実践していくことであり、恨みに報いる行い、縁に従う行い、求めるもののない行い、法にかなった行いという四つの実践を通して、心の平和を深めていきます。
現代社会は、情報過多や競争の激化、予測不能な災害や社会情勢など、私たちが「安心(あんしん)」しにくい要素に満ちています。
そんな時代だからこそ、仏教が説く「安心(あんじん)」の教えは、私たちにとって計り知れない価値を持つのではないでしょうか。
外側の状況をコントロールしようとするのではなく、内なる心のあり方を見つめ、不安や恐れといった感情にどう向き合うかを学ぶこと。
マインドフルネスの実践や、執着を手放す生き方は、まさに現代を生きる私たちが、心の平和を見つけるための羅針盤となるはずです。
真の「安心(あんじん)」は、外に求めるものではなく、今ここにある自分自身の中にこそ見出せる、という仏陀(ブッダ)の深い洞察は、時代を超えて私たちの心に響きます。
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