仏教とは、仏になるということ
神道では、人間のあずかり知れぬ超自然の世界から、強烈なパワーのエネルギーが、この世に降り立つと考えられています。
それに対して、仏教では、ふつうの煩悩多き人間が戒を守り、修行をして、仏の域に到達することが目的であると考えられていました。
平安中期から鎌倉時代のはじめに流行した今様歌でも、「仏も昔は人なりき」
という歌い出しではじまるものがあります。
『梁塵秘抄』というの法文歌の中にあります。
「仏も昔は人なりき我らも終には仏なり
三身仏性具せる身を知らざりけるこそあはれなれ」
仏教では、生きているうちに仏になることを目指すことを説いていると思います。
しかしながら、この仏という言葉は、現代において一般的にはかなり誤解されているような気がします。
「仏様」というと、亡くなった人を指す場合があるし、「生き仏」というと、お釈迦様の生まれ変わりのような意味で使われているようです。
「オシャカになった」とか、「お陀仏になる」というと、死んだとか、失敗したとか、駄目になったという意味になりますが、仏とは仏陀(ブッダ)のことを指すとすればやはり間違った使い方だと思います。
道具が使えなくなったのを、「おシャカになった」というのは日本だけだと思います。
「オシャカになった」というのは、お釈迦様に失礼な話だと思います。
お釈迦様はやさしい人だから、怒りはしないとおもいますが、凡人だったら、失敬な、と青筋たてて怒り出すのではないでしょうか。
でも、どうしたら生きながら仏になれるのかを説いたのが仏教なのだと思います。
そこがキリスト教とは根本的にちがうような気がします。
仏とは何かというと、平安時代の今様にもあったように「仏も昔は人なりき」、もとは人であって、それが仏になったという仏陀の教えそのもではないでしょうか。
『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は、平安時代末期に編まれた歌謡集。今様歌謡の集成。編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作。
ほとんどが仏教に関係する内容なので、全部が面白いというわけではないのですが、当時(11世紀)の庶民の生活や心情がちらほらとかいま見えて、読めば読むほど味が出てきます。白拍子や遊女、そして傀儡子(くぐつ)と呼ばれた芸人達によって作られ、伝えられた当時の民衆の「歌謡曲」です。
「自分がどう生きるか。」という教え
「唯一神」とか、「神・カミ」とか言われても、日本人のいまの生活の中では、そういう絶対的な神というものに対する、習慣というか、子供のころからの馴染みが、あまりないものですから、ピンと来ません。
でも、「仏様(仏陀)も人だったのか」と考えると、親近感といいますか、人と人のつながりといいますか、そういうものが感じられます。
では、「人がなった仏とは一体なんだろう。」という疑問が沸きますが、なかなか、それに答えてくれる説がありません。
「仏というのは何だ」と言われて、「やさしくわかる仏教」などというたくさんの本を読んでみても難しくて、なかなかわかった気になれません。
仏陀(ブツダ)、釈尊、お釈迦様と、普通こう呼びますね。
仏陀(ブツダ)はもともと人でした。
二十九歳で出家して、三十五、六歳のころに悟りを得、人びとに教えを説いていくわけですが、あんまり形而上学的な難しい話ではなく、どんなふうに生きていけばいいか、というようなことを語ったとされています。
非常にやさしい話です。
形而上学的な話は、釈迦は語ろうとしませんでした。
そんな議論をするより、「自分がどう生きるか」という実践が大切だという教のような気がします。
たいへん簡単な教えだと思います。
日本人によくわかる、多神論の教え
仏教の入門書を手に取って最初に読むと、四諦=八正道などとあります。
この専門用語の難しさに、まずお手上げ状態になります。
諦とは、真理という意味で、人生に関わる四つの真理について語るところから始まります。
「四諦」とは、「人生は苦であるという真理、苦の原因に関す真理、苦を滅した悟りに関する真理、悟りに到る修行方法に関する真理」とあります。
「八正道」というのは、人生の苦しさをさけるためにはどうしたらよいかを説いた、八つ
の実践項目となっています。
なかなか文字を見ただけでも難解さが伝わってくる感じです。
現世を苦として、それをしっかり認識する。
その苦の中で果たして人間はそれを乗り越えることができるかと疑問を投げかける。
それに対して、仏陀(ブッダ)はできると答える。
そのためには、どうすればよいのかというので、こうすれば苦を乗り越え、煩悩を離れることができるということを、仏陀(ブッダ)はずっと論理的に説いていきますが、特に神秘的なところはありません。
四諦・十二因縁が釈迦の思想だといわれています。
苦の原因は欲望である。
その欲望を滅ぼせ。
欲望を滅ぼすには知恵を磨き、そして瞑想し、戒律を守ればよいと。
非常に簡単で明瞭な教えですね。
十二因縁とは、人生の苦の原因を、十二段階に分けて説明してあるものです。
その戒律にしても、絶対的な戒律を犯すことは、神への冒漬とかそういうことではなく、一
つの達成目標というか、その目標に向かって努力しなさい、という話の内容のような気がします。
戒を犯した場合、救われる手段が丁寧に書いてあります。
こういう俄悔をしなさい、こういうことを慎んで、二度と起こさないようにするためには、こういう罰を受けなければいけない、というようなことがいろいろと説かれているのです。
「戒律を犯す」、つまり破戒をしたら即地獄へ落ちて、救済されないというのではなくて、戒を一つの目標としてかかげ、その戒に向けて努力しょうという、非常にわかりやすいことなのだと思います。
釈迦仏教においては、仏は釈迦ひとりだったのだと思います。
大乗仏教になって仏様がたくさん出てくるようになりました。
釈迦も歴史的な釈迦じゃなくて、法華経のようにずっと昔から説教している、そういう超時間的な釈迦になってきました。
釈迦のいろんな能力のうちの、病気の人を救うのが薬師如来になったり、あの世へ死んだ人を迎えて成仏させるのは阿弥陀になったり、未来の救済仏である弥勒菩薩とか、如来、菩薩、明王、天などたくさんの仏がどんどん増え広がってきました。
大乗仏教は多神論で、それが日本人にはよく理解できるのではないでしょうか。
八百万の神と、たくさんの仏たち
日本人は多神論で、八百万の神に近い考え方だと思います。
仏教が日本に入る前の原始的宗教観と、それが発展した神道の影響ではないでしょうか。
日本人の「至るところに神があるという」原初的思想が強く残っているのだと思います。
強い力をもったものはすべて神様だ。
人並み優れた力をもつ人も神様だ。
雷は人を襲い殺すから神様だ。
山にも川にもそういう神がある。
超人間的な力を持っているのはぜんぶ神にしたのだと思います。
日本の神々は一つひとつ個性的な歴史を持っています。
仏教のように理論では説明できない神様がたくさんいます。
そういう神様は、いまのような、デジタル化された時代になっても、日本人の心の中に厳然として生きています。
日本人の無意識の、ある超越的存在に対する心中にあると思います。
「人生は苦である」への疑問が大乗仏教
ヨーロッパでは、仏教というものが最初に紹介されたときに、おおかたの思想家や哲学者は、嫌悪感をおぼえたと言われています。
仏教の持っている「人生は苦である」というような考えかた、そういう大前提に対して、一種の抵抗感があったといいます。
仏教には「輪廻」というのがあります。
古代インドのバラモンとか、そういう流れの中で、人びとに信じられた思想なんだろうけれども、輪廻を脱するというのが、つまり一つの目標であると考えるわけですね。
釈迦の仏教には、輪廻を脱するというが、日本の仏教とは少し違う気がします。
釈迦の仏教は「人生は苦である」という、それが基本ですね。
その苦の原因も、愛欲で、愛欲から争いが起こっていく。
争いのもっとも酷いのは人殺しだと。
結局、そういう人間の運命を克服しないといけない。
それには愛欲を滅することが必要だ。
戒律を守り瞑想をし、智恵をみがくことによって、愛欲を滅ぼす。
完全に愛欲を滅した状態に達するのが涅槃(ニルヴァーナ)だ。
涅槃(ニルヴァーナ)に入るのは、生きているときは難しい。
だから、生きているときに、そういう状態に達したのを「有余捏磐」といい、死んでからを「無余捏柴」という。
そういう思想が釈迦仏教(原始仏教)だと思います。
「人生は苦であるか」という釈迦仏教に、疑問を提出したのが、大乗仏教ではないでしょうか。
釈迦族は滅ぼされ、自分の親族がぜんぶ殺されても、やっぱり釈迦は、心を動かさなかった。
それは人間の運命に対する、非常に深い諦観だけど、人生の根底にちょっとちがうようなものがあるような気がします。
苦は苦であったとしても、ゴータマ・シツダツタという人物は、生きているあいだ、苦悶とか苦しみだけでなくて、幸せもやっぱり感じていただろうなと思うときがあるのです。
有名な逸話ですが、ガンジス川の流域を歩いて説法して旅していたブツダが、ある日、大金持ちのスポンサーから、自分のマンゴー園で一夜を宿ってくれとすすめられ、マンゴー園の樹の下に泊まります。
マンゴーという木はものすごく大きな樹で、肉厚の葉がびっしり密生しています。
周りは酷熱の大地で、日は照りつけるし、蚊に刺されるし。
ところが、マンゴー園の中だけオアシスみたいに日陰があって、涼しい風が吹いている。
おそらくプツダは杖をついて、あの砂ほこりの中をずうっと歩きつづけて、疲れはてた体を、若い数人の弟子たちとともに、そのマンゴーの樹の根元に体を横たえたんだと思います。
肉厚の、天井のようにびっしり繁っているマンゴーの葉の向こうにインドの星空を見、涼しい夜風が吹いてくる中で、若い弟子たちといろんなことを語りあったのではないでしょうか。
そのとき仏陀(ブツダ)はやはり、すごく幸せだったのではないでしょうか。
人生は苦が多い。
しかし苦と苦の間に、一瞬ではあるが至福の時もある。
その至福の時を意識的にもたらす方法として、呼吸法や冥想法を説いていたのではないかと思います。
苦からの救済というか、
因業からの脱却というか、
明確に語っているわけでありませんが、苦の迷いの輪廻からの脱却ということも、あったのではないでしょうか。
仏とは何か、という問題に立ち返ってみると、むかしの今様の
「仏も昔は人なりき」という歌いだしのように、人間を超えた別の存在ではない。
仏という存在はもとは人であって、それが仏になった、仏は人なんです。
そんな仏陀(ブッダ)という人の教えをわかりやすく伝えていけたらいいなと思います。