仏陀の教え-仏陀最後の旅-法を島とし法を拠り所として

法を島とし法を拠り所として

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法を島とし法を拠り所として


この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入りましました。
そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索にふけります。
ちょうど、その時ですね、仏陀(ブッダ)は、思いがけなくも、本当に大きな病にかかる訳です。

最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の模様をこんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀(ブッダ)・最後の旅」には書かれています。

さて尊師が、雨季の定住に入られたとき恐ろしい病が生じ死ぬほどの激痛が起こった。
しかし尊師は、心に念じてよく気をつけて悩まされることなく苦痛を堪え忍んだ。
そのとき尊師は、次のように思った「私が侍者たちに別れを告げないで修行僧達に別れを告げないでニルヴァーナに入ることは私には相応(ふさわ)しくないさぁ私は元気を出してこの病苦を堪(こら)えて寿命のもとを留めて住することにしよう」と。


つまり大変な激痛が生じてですね。

本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏陀(ブッダ)は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じるんですね。

それがまだ自分には残した仕事があると感じていたのか、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げるために、この旅を続けようという意思なのか、あるいは、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずるままに、自分の人生というものを、もう一度、生きていこうという風に考えるのか、その辺は良く分かりませんけれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われるように、生易しいものではありません。

人間が最後の旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生きていく訳です。

その最後の旅の中で、仏陀(ブッダ)もまた、この病気と苦痛と、そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって居られたということを思いますと。

人間・仏陀(ブッダ)、人間ではないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、深く背負った仏陀(ブッダ)という存在、そこに、私達人間も、とっても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚えるところがあります。



仏陀(ブッダ)・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が付き添っておりましました。
その名は、アーナンダ。

弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だったと伝えられています。

病から回復した仏陀(ブッダ)の姿を見て、アーナンダは歓喜し、こう言います。
「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、分からなくなっていました。
でも、もう安心です」。

そんなアーナンダに、仏陀(ブッダ)はこう答えましました。

アーナンダよ私はもう老い朽ち齢(よわい)を重ね老衰し人生の旅路を通り過ぎ老齢に達した我が齢(よわい)は八十となった例えば、古ぼけた車が革紐(かわひも)の助けによってやっと動いていくようにおそらく私の身体も革紐の助けによってもっているのだ。


さらに、仏陀(ブッダ)は、自分が死んだ後の心構えについて、修行僧達に説きましました。

この世で、自らを島とし、自らを頼りとして他人を頼りとせず法を島とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずに行いなさい。

アーナンダよ、今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、自らを島とし、自らを頼りとし、他人を頼りとせず、法を島とし、法を拠り所とし、他のものを拠り所としないでいる人々が居るならば、彼らは、我・修行僧として最高の境地にあるであろう。

言っていることは一つだと思います。

自分の尊敬する人が居ることは結構です。

だけど、大事なことは、そういうことであることよりも、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものがあります。

ダルマといいますね。

そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りとして、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言っている訳です。

仏陀(ブッダ)の言っていることというのは、私は、決して、自分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと思いますね。

それよりもっと大きな宇宙の真理というものがあります。

そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うのは例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居ますね。

「水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをしっかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身の道を歩くが良い」と、仏陀(ブッダ)は、こういう風にここで語っているんだろうと思います。

この世で自らを島とし自らをたよりとして他人をたよりとせず法を島とし法をよりどころとして他のものをよりどころとせずにあれ。

ナーディカ村において

仏弟子アーナンダが、修業僧、尼僧、在俗信者達がが亡くなったことに触れ、彼等が死後どこに行くのかを仏陀に質問しましました。
仏陀は次のようにこたえる。

修業僧サールハは、心の解脱、智慧による解脱をすでに生存中に具現していた(彼には、すでに生死はない)。
尼僧ナンダーは、下界(欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしていたので、ひとりでに生まれてニルヴァーナ(涅槃)に入り、この世界にもどることはない。
在俗信者スダッタは、三つの束縛を滅ぼしていたので、欲情と怒りと迷いが漸時に薄弱となり、一度だけこの世にもどるが、もどって苦しみを滅ぼしつくす。

■五つの束縛

小乗仏教では、五下分結という。
下分は欲界を意味し、結は束縛を意味しましました。


□貪欲。

□瞋恚(しんい)。
怒ること。

□有身見。
<われ>とか<わがもの>とかいう観念を離れない我執。

□戒禁見取(かいごんけんしゅ)。
誤った戒律や禁制を正しい修業方法であるとして執着すること。

□疑。


■三つの束縛
三結という。
結は束縛を意味しましました。


□見結。
われ有りとみなす見解。

□戒取結。
あやまった戒律を行ずることを解脱の因と見なすこと。

□疑結。
正しい道理を疑うこと。


法を島とし法を拠り所として

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