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仏陀(ブッダ)の誕生

仏陀(ブッダ)の生没年代はに諸説があり不確定な点が多くみられます。

生涯については『過去現在因縁経』『仏本行集経』『普耀経』『仏所行讃』『大般涅槃経』また、戒律の中にもみることができます。

特に重要なものは『仏所行讃』(仏陀(ブッダ)チャリタ)だと思います。


仏陀(ブッダ)は北インドの小国で、この国の王の家に生まれました。

紀元前463年4月8日、シャーカ族のマーヤー王妃はルムビニー園と言う王家の別荘の花園内の、菩提樹の下で赤ん坊を産んだとされています。

摩耶夫人が出産のために里帰りしている最中、ルンビニー園で休んでいますと、沙羅の花が満開でした。
そこで夫人が1本手に取ろうと手をのばしたところ、仏陀(ブッダ)が突然右の脇腹から生まれたともいわれます。

聖夢懐胎
ほぼ2500年以前、北インドの仏陀(ブッダ)族のカピラ城にいた摩耶夫人が午睡中に天から白い象が降りてきて、自らの腹に入った夢をみてシッダールタを懐妊したと伝承されています。
この象の牙が6本あったとも、象の上に菩薩が乗っていたとも伝えられています。

仏陀(ブッダ)は、産着を着せられるとすぐ立ち上がり、四方を見回した後北に向かって7歩あるき、右手で上を左手で下を指し「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんかゆいがどくそん)と言ったという俗説があります。

現在4月8日をお釈迦様(仏陀)の誕生日として花祭りといって祝っています。


父であるゴータマ・シュットダナ王の住むカピラヴァスツの王宮に急使が走り、太子誕生が告げられました。

王は、太子にシッタルダと名づけました。。

マーヤー王妃は、産後の出血がひどく、シッタルダを産んで七日目に死去しました。

父は後妻に、摩耶夫人の妹のマハーパジャパティ(摩訶波闍波提)を迎えました。
マハーパジャパティはよくできた人で仏陀(ブッダ)を大事に育てます。

やがて弟のナンダも生まれました。

シッタルダは、マーヤー王妃の妹マハー・パジャーティに育てられました。

王妃が亡くなってから、雪山(ヒマラヤ)で修行していた聖者アシタ仙人が、王宮を訪ねて太子誕生のお祝いを述べました。

アシタ仙人は、ボーデーサッタ(菩薩)が人間界に生まれ、それこそがシッタルダ太子だと、神々に告げられたと言います。

アシタ仙人は、自分の甥のナーラカにも、将来、真理に目覚めて悟りを開いて真理の道を歩む人に合い、その人の教えを聞き、その師のもとで浄らかな行を行なえと言って、山に戻っていきました。

このナーラカは将来シッタルダが仏陀(ブッダ)と呼ばれるようになってから、その門弟になりました。

若き日のシッタルダは、太子として小さい時から必要な教養を身に付けさせられました。
太子は、非凡な才能を持っていて、あらゆる技芸に上達しました。

一方でシッタルダの体は弱く、きゃしゃな体つきだったと言います。

多くの侍女や侍従にかしずかれ、豊かな生活を送っていました。

衣服や食事においても何不自由なく暮らしていきました。

王は虚弱な太子のために三つの別荘を建てさせました。
冬の宮、夏の宮、雨の宮の三つで、それぞれの期間に、それぞれの宮殿で過ごしました。
太子は高い教養を身に付けていたので、教養の無い同年の少年達と遊ぶこともませんでした。
太子は、王宮での享楽的なことに喜びを感じず、亡き母のことを思い、寂しさを感ずるのになりました。

宮殿に閉じ込められた太子は、自ら城外に遊びに行くこともませんでした。

ある時、宮殿で宴がありました。
若き王子はそれに参列していましましたが、宴が終わって散会したあと、何人かの侍女が酔いつぶれて、だらしなく眠っていました。
それを見た純情な王子は、世の女性というものに幻滅し、厭世の思いが起きたともいいます。

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仏陀(ブッダ)の結婚

ゴータマ・シッタルダ太子が17歳の時、太子の妃を決める為、カピラヴァスツの公会堂に長老が集まりました。

会議の結果、シャーカ族に血筋の近い、王の妹の姫君、ヤソーダラ(耶輪陀羅)姫が候補に上がりました。

古代インド農耕社会では近親結婚が慣習化していました。

姫君は、柔和で貞順でもあり、太子にふさわしいと思われたようです。

太子も昔から姫君を知っていたので、既に仄かな恋愛感情を抱いていました。

太子とヤソーダラ(耶輪陀羅)姫との成婚に、カピラヴァスツの町は歓喜に沸き返ったとされています。

他の国々の王も、使節を派遣したり贈り物を贈ったりして、祝意を表しました。
祝宴は、3日も続いました。

太子が花嫁と共に新宮殿に入ったのは、結婚式を行なってから4日目のことでした。

ヤソーダラ(耶輪陀羅)姫が二十歳の時、妊娠しました。

太子は自分の母が出産によって死んだ事を思い返し、姫の妊娠がとても心配になりました。

ヤソーダラ(耶輪陀羅)姫は太子が憂い顔でいるのを見て、美貌で心柄の良い姫を選んで太子の第二夫人として与えました。

太子はあまり気が進まなかったようですが、そのムリガジャー姫を側室としました。

太子は、雨の宮殿で女達に囲まれて、淫楽と飲酒に明け暮れて退屈をしのぎました。

しかし、太子はそれらを歓楽と感ずるよりも、わずらわしいと思う方が多かったようです。

毎日、馬を飛ばしてヤソーダラ(耶輪陀羅)のもとへ戻ったりしました。

そんな日々の中、ムリガジャーは太子に対して、なぜいつもそのような瞑想をしているのか尋ねました。

太子は、人間の死について考えていることを語りました。

同時に、ヤソーダラ(耶輪陀羅)妃の事が心配でならない事を告げました。

太子は、ある朝不吉な夢を見てヤソーダラ(耶輪陀羅)妃のもとへ馬を走らせました。

太子は、ヤソーダラ(耶輪陀羅)妃に自分の心配を告げましたが、妃に雨の宮殿に追い返されています。

第二夫人は、太子が頻繁に妃のもとに帰るので嫉妬していました。

そこで、太子は何故自分が妃を案ずるのか、母の死のことも合わせて話しました。
こうして、ムリガジャーの嫉妬は少し解けたようです。

シッタルダ太子が心配していたほどのこともなく、ヤソーダラ(耶輪陀羅)妃は安らかに、王子を産みました。

シュットダナ王は孫の王子誕生を喜び、ラーフラ王子と名づけました。。
この「ラーフラ」とは「悪を倒す者」という意味ですが、読みようによっては「悪魔」とも読めるそうです。

なぜ、そのような名前を付けたかというと、この子供が産まれたことが、自分を俗世間に縛り付けるものであるように思えたからではないか、という説を唱える人もいます。