四門出遊
釈尊の出家の動機としてよく語られる「四門出遊」という説話があります。
釈迦族の王子として育ち、何不自由のない暮らしをしていた若者がなぜ出家したのでしょうか。
釈尊が物思いに耽って、いまでいう鬱(うつ)の状態になっているのを案じた父が、彼を城外に出して散策させます。
彼がカピラ城の東門から外に出たら、杖をついて若しそうにしている老人と出会います。
釈尊は従者に間きます。
「あれは何か」と。
「老人でございます」と従者が答えると、
「老人とは何か......」と釈尊は重ねて問います。
「はい、人間が年をとりますと、あのような姿になります」
「誰でも老人になるのか?」
「さようでございます」
「おまえも年をとると、ああなるのか?」
「はい」
「この私もやがては老人になるのか?」
「はい、さようでございます」 と従者は答えます。
それを問いて釈尊は引き返します。
また別の日に南門から出たら路上に倒れている病人と出会い、西門から出たら死者を悼む葬儀の列に出合います。
そのつど、あれは何かと聞きます。
お釈迦さんはいい年をして老人も病人もわからないのか、と思う人がいるかもしれません。
でも、質問には二つあります。
わからなくて質問する場合と、自分はよく知っているが相手に理解を深めさせるために聞く場合とがあります。
釈尊の質問はその後者で、
「老」
「病」
「死」
という人生の重大事実を相手に深くわからせるために、そのつど聞いたのです。
それらを目にして、生きていれば老・病・死の三苫は避けられないのに、誰もそれを自覚することなく日々を無為に生きていることを痛感します。
そして最後に北門を出たときに出家した修行者に出会い、その落ち着いた、清らかな足どりで歩く姿に感動し、自らも出家をしようと決意したといいます。
これが「四門出遊」、後世に生まれた説話です。
二十九歳で家を出たブッダは山林に入り、六年にも及ぶともいわれる凄まじい苦行をなさいました。
「四門出遊」の話の中で、釈尊は北門を出たところで出会った出家者に対して「どうして、このように優雅で、しかも尊い人柄ができたのか」と尋ねるんです。
すると、その出家老は
「私もかつてあなたと同じように老・病・死の人生の大きな問題で悩み続けた。老・病・死の苦悩の解決は他に求めて得られるものではなく、また瞑想して観念的に解決のつくものでもありません。自分を正しく支配できるように厳しい努力を重ねる以外に方法はないのです。」
と、自分の体験を語ります。
苦行時代
それで釈尊は出家して、最初六年間、さまざまな難行苦行を行いました。
ブッダ白身、苦行時代の初期に断息の修行を徹底的に行って、それは『アーナーパーナサティ・スートラ』、つまり『大安般守意経』としてまとめられています。
また、ブッダは断息以外にも、断食をしたり、茨の中を転げまわったり、腐敗していく死体とともに寝たりと、毎日そんなことばかりやっていました。
それを六年間も続けました。
当時はそういう苦行をする行者がたくさんいて、苦行林とか苦行山という場所でともに苦行をしていました。
でも、ブッダの目には誰も悟りとか真実の思想に到達した者はいないように見えたようです。
しかし、彼自身もそれを知ることができないまま、ついに身心が疲労し果てて呆然となってしまいます。
そして、このままではまったく無意味であると決断して山を下りるわけです。
仏陀(ブッダ-覚った人、覚者)
バラモンの考えに基づけば、この世にはどうにもならないことがあります。
この世はもう捨てて、次の世を幸せにするために、この世で難行苦行をしなければいけないという考え方です。
釈尊も、その指導に従って苦行に入りますが、六年間もの苦行の結果、それはまったく意味のないことで、むしろ害があると気づきます。
なぜ無駄だとわかったのかといえば、次の世というのがあるかないか誰も経験したことがありません。
そんな不確実なことを目標にして厳かに実在する現在を投げてしまうということは無意味だ、愚かだというのがひとつ。
それと、いわゆる楽というものを求めて苦行すれば、欲望は次々にエスカレートしていき、いつまでも苦行を続けなければなりません。
だから、欲望を追いかける道の苦行は意味がありません。
それに気づいて苦行林を出たわけです。
しかし苦行山を降りと、「あいつは苦行が辛くなって逃げた、堕落した。」と思われます。
罵言雑言を背に受けながら村へ行き、たまたま出会ったスジャータという娘に米を牛の乳で炊いた甘い乳粥をもらいました。
この乳粥は当時のインドではとても贅沢なもので、修行者が目にすれば堕落したとみなされました。
彼も迷ったと思いますが、結局それを飲んで、体力を回復します。
そのあと河のほとりの菩提樹の木陰の涼しい場所に座って瞑想に入ると次第に求める思想が明らかになってきて、暁の明星(金星)の輝きを見た刹那、ついに悟りを開いて、ブッダ(覚った人、覚者)となります。
時に釈尊は三十五歳。
そこから自らが体得した真理を伝えるために布教の旅に出て、八十歳で亡くなるまでのほとんどを旅から旅への生活を送るわけです。
真実によれた
休験したからこそ無駄が無駄だとわかってくるこういう流れがあるためか、一般に、苦行は役に立たないといわれます。
苦行が空しいものだと知るためには、苦行をしなくてはいけなかったのではないかと。
苦行を体験して、「あぁ、これではどうしてもだめだ」と思ったというのがすごく大きなことです。
苦行という道を行ってだめだとわかったというのは、実践して真実を掴んだというのと同じです。
体得したものでなければ人を導いたりできません。
その意味では苦行が無駄だったということはなかったのではないでしょうか。
六年の苦行を体験したからこそ、その反対の静かな瞑想の中で、苦行によって本能的に模索されていたものが冷静な論理の形となって浮かび上がってきたのだろうと思います。
苦行を捨てたからといって決して反対方向へ行ったわけではなく、苦行と、その後の悟りは連続しているものだと思います。
ブッダは直感的に悟り、頭で納得しただけじゃなくて、体感として「真実によれた」と感じたのでしょう。
釈尊は、得た悟りを頭の中で徹底的に理詰めで考えて整理していくわけです。
インドの人たちは非常に論理的です。
ブッダも、まさにインド人らしく、日本人では考えられないほど論理的かつ緻密な構図を組み立てていきました。
それがある程度頭の中で整理できたときに、彼は瞑想から覚めたのでしょう。
それから苦行をしていたころの五人の友に会いに行くわけです。
この五人の友は、釈尊が出家して苦行にいそしんでいたときに、父の浄飯王がガードマンとして密かにつけて出した者たちです。
その五人も釈尊から少し離れたところで一緒に難行苦行をしていました。
ところが、釈尊は六年間の苦行の結果、難行苦行では解脱を得ることができないと知って山を下りてしまいます。
それを見た五人は「ああ、もう彼を守る必要はない」と思ったでしょう。
さらに釈尊が、何で水浴して体の垢を落とし、村の娘スジャータがすすめる乳粥を飲むのを見ます。
当時のインドでは、男女間で言葉を交わすだけでもとんでもないことなんですが、そのうえ乳粥まで飲むのを見て、五人の友は呆れ、釈尊は苦行を放棄して堕落してしまったと失望して、もはやガードする必要はないと彼を見捨てて、そこから離れたベナレスにあった鹿野苑の苦行林に入って苦行を続けました。