自己探究の教えについて説く
仏陀(釈尊・釈迦)が鹿野苑(ろくやおん)にいた時のことです。
すでに弟子の数も六十人に達していました。
まだ五人の比丘に最初の説法をしてから間のないことでした。
仏陀(釈尊・釈迦)は六十人の弟子を諸方に送り出して、新しいこの教えを流布させようと考えたのです。
「私はすでに人天の世界のあらゆる係蹄(わな)から自由となった。諸君もまた、そのようです。比丘たちよ、これから大いに伝道の遊行をはじめよう。
大衆の利益と、幸福のためです。
衆生を憐れみ、人天の利益と幸福と安楽のために遊行せよ。
ひとりひとり、一つの道を辿るのだ。
初めも、中も、終りもすべ善く、理路正しく法を説きなさい。
円満かつ、清浄な表現によって梵行を説くのです。
人々の中には汚れのすくない者もあるが、これらの人も法を聞かなかったならば堕落するのみです。
法を聞けば、覚る者(悟った者)(ブッダ)となるでしょう。
比丘だちよ、私は、ウルヴェーラのセナユガーマに行って法を説く。」
仏陀(釈尊・釈迦)はこのように伝道をすべく宣言したのでした。
この時、またも悪魔マーラは仏陀(釈尊・釈迦)に語りかけた。
「汝は、人天の世界で悪魔のわなにかかった。
そして、
悪魔の綱にしばられています。
沙門よ、汝は未だ自由になっては居らぬ。」
仏陀(釈尊・釈迦)も謁をもって答えました。
「私は、この人天の世界において、悪魔のわなを免れています。
悪魔の綱を解き放っています。
破壊者、マーラよ、汝はすでに敗れた。」
この伝道は人々に利益と幸福をもたらすものですが、伝道にふみ切るということにはまた不安が新しく覆いかぶさって来ることは仕方のないことなのです。
仏陀(釈尊・釈迦)は伝道の旅に出ました。
その道すがら、森の中の樹の根方でしばしの憩いをとっていると、数人の若者が慌ただしくやってきて。
「こっちへ女が逃げて来なかったでしょうか。」
と問いかけてきました。
彼らはこのあたりの良家の子弟であるが約三十人ばかり各々が妻といっしょに森に遊びに来たのです。
その中にただ一人、まだ結婚していない者がいて、彼はひとりの遊び女を妻のかわりに連れて来たのでした。
森の中でみんなが遊びにうつつをぬかしているうちに、隙をみてその女が彼らのもって来た金目のものをとって逃げたのでした。
彼らはその女を探すために、慌ただしく森の中を駈けめぐっていたのです。
その事情を聞いた仏陀(釈尊・釈迦)は彼らに言いました。
「若者だちよ。その逃げた女を探し求める前に、みなはもっと大切なことをなすべきではないか。
それは己自身を探し求めることの大事さをさきに考えるべきではないか。」
仏陀(釈尊・釈迦)は、若者たちをそこへ坐らせると、人生の正しい見方、生き方を説きはじめたのでした。
まだ人生の汚れにあまり染まらぬ若者たちは、その教えを素直に理解し、やがてみな出家して仏陀(釈尊・釈迦)の弟子となったのです。
仏教はつねに内観を重要視します。
自己探究の教えであるといいっていいと思います。
仏陀(釈尊・釈迦)の生きかたそのものが、それでした。
煩悩の炎について説く
ある時、仏陀(釈尊・釈迦)はガヤーシーサ(象頭山)に登りました。
すでに多くの弟子たちが従っていました。
それはマガダ国への遊行の途中の旅でした。
山の東北のふもとのガヤの町の東を、ナイランジャナーがゆるやかにうねり、水は鈍く光を反射させていました。
その河岸に、仏陀(釈尊・釈迦)の大悟された菩提樹があります。
仏陀(釈尊・釈迦)はこの山上に立って、多くの弟子たちに語りかけました。
「みなののものよ。
この世のすべてのものは燃えています。
熾烈たる様相こ燃え上っています。
そのことを、みなはまず知るべきなのです。」
仏陀(釈尊・釈迦)がこのように、核心をつく説きかたをしたのは、はじめてでした。
「人生は燃えている」と語り出したのです。
「すべては燃えています。
人々の眼は、その対象に向かって燃えています。
人々の耳は、そして鼻は、また舌も燃えています。
その身体も、心もまた、その対象に向かって熾烈に燃え上っています。
それはすべて、貪欲の炎に燃え、真意に炎を上げ、愚痴の炎に燃えさかっている。」
仏陀(釈尊・釈迦)のこの説法は、仏教の思想の流れに大いなるものを与えました。
人間がのたうつ、苦の人生の根元はこの熾烈な炎にあります。
これを「煩悩の炎」と呼びます。
この炎に焼かれる人間のいとなみがあるかぎり、人は志す、涅槃の岸へは辿りつくことはできないでしょう。
「涅槃」と呼ばれる究極の境地に至るには、この炎を消さなくてはなりません。
「涅槃」という言葉には、「火の消えた様子」という意味が含まれるのです。
仏陀(釈尊・釈迦)のいう、「解脱涅槃」という考え方は、解脱して涅槃に至るということは、死してのち、天界に生れるというような考え方とはまったくちがうのです。
私たちをさいなむこの、煩悩の炎の根本をよく観て、これを絶ち切ってしまえば、この炎は再び燃え上がることはない。
そして、安らかな清い人生が目の前に広がってくると説かれるのです。
悪魔とは何であるかを説く
仏陀(釈尊・釈迦)は弟子のラーダ(羅陀)に向かって、悪魔とは何であるかを説いています。
「魔とは、色・受・想・行・識、これなり」
「われわれの肉体は、われわれの求道の行を妨げ、かき乱し、不安におとし入れるものをもっています。
またわれわれの感覚もまた同じ作用をなすことがあります。
また感情も、意志も、判断も、すべて私たちを妨げ、乱し、不安となす作用を与えるのです。
悪魔とはこれでれです。
それをじっと見ることが出来れば、それこそが正観なのです。
すなわち正しく己を見るということです。
そして正観すれば厭離(おんり・えんり:けがれた現世を嫌い離れること。)の想いが生れ、厭離することによってはげしい欲望のいとなみから離れられるでしょう。
それは解脱への道です。
そして涅槃に到るのです。」
涅槃とは、激しい欲望によって乱されることのない境地であり、そこにこそ自由と平和があるのだと説くのです。