仏陀(ブッダ)の布教
仏陀(ブッダ)は、マカダ国12万人の国民を教化するために布教に努めました。
国の人々には、カッサパが仏陀(ブッダ)の弟子となったことは信じませんでした。
そこで、仏陀(ブッダ)はラージャグリハの人々を竹林精舎に集め、カッサパと問答を行ないました。
これを見た市民は、カッサパが仏陀(ブッダ)のもとで修行をしていることを知り、仏陀(ブッダ)の教えを聞きに来るようになりました。
こうして、マカダ国では仏陀(ブッダ)の教えが広まりました。
ピンビサーラ王も、国内の村長を集めて、仏陀(ブッダ)の教えを聞くように命令しました。
ラジャーグリハには、250名の仲間を引き連れる懐疑派のサンジャヤと言うバラモンが住んでいましたが、サーリとモッガラーナの2人も彼に従って修行していました。
この2人は仏陀(ブッダ)に会い、彼の説く真理に惹かれていくのですが、仏陀(ブッダ)は2人に「師と250人の仲間と相談」してくるように説き、一旦帰しました。
懐疑派サンジャヤの教徒は、心理の存在を信じずすべてを、否定もしないが、肯定もしないというような考えでした。
この懐疑派の判断中止の思想は、深い思索による叡智によって無を認識する仏陀(ブッダ)の思想を妨げるものだったといわれていますので、正覚を得ようとする修行の妨げになると考え、2人をサンジャヤの元へ戻し、教団の者たちと話し合いをすることをすすめたのだと思います。
2人は、サンジャヤに、ゴータマ・仏陀(ブッダ)の思想について話し論じ合った結果、サンジャヤは理論に破れ血を吐いて死にました。
こうして、サンジャヤの弟子250人もすべて竹林精舎に来て、仏陀(ブッダ)の弟子となりました。
サンジャヤの弟子までもが仏陀(ブッダ)の弟子となったので、マカダ国の人々は竹林精舎に畏怖感を覚えました。
「マガタ国中の全員が出家したら、誰も仕事に従事するものがいなくなってしまう。」と思ったからです。
仏陀(ブッダ)は、竹林精舎の修行者は元々出家したものたちばかりだったから心配いらないと告げ、町の人々の畏怖を解消させました。
コーサラ国の大富豪アナータ・ピンダダが、商用でマカダ国に来ていました。
彼は慈悲深い人で、貧しい人々を救済したり、未開の土地を解放して農村を作ったりと、慈善事業も行なっていました。
彼は、シャーカ族の王子が新しい真理を自覚して、その教義を広めていることを知り、興味を持って長旅を続けてきました。
ピンダダは、竹林精舎の仏陀(ブッダ)を訪ね、サマデー(坐禅での心の統一)の"功徳(くどく)と縁起(えんぎ)の理法"を教えられました。
(この世の存在する一切のものが、相互依存し相互関連していることという教え)。
ピンダダも仏陀(ブッダ)の信者となり、コーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に精舎を建設するから、そこへ来てくれるように仏陀(ブッダ)に頼みました。
ピンダダは、帰国後すぐに精舎の場所探しを始めました。
良い場所が見つかりましたが、そこはコーサラ国王子ジェーダの遊猟地になっていました。
ピンダダは、王子にその土地を譲ってくれるように頼みましたが、王子はコーサラ国の小国シャーカ族の太子が何万人もの信者を持つ教祖になっているのが、気に食わなかったので土地を譲らないと断りました。
そこで交渉に行くのですが、皇太子は相手にせず「欲しいのなら、その土地の広さと同じだけの黄金を納めなさい」といいます。
するとスダッタは本当にその土地に黄金を敷きつめはじめました。
驚いた皇太子はスダッタにきちんと適切な価格でその土地を売ることを同意するのです。
こうして仏陀(ブッダ)に寄進されることになった道場が祇園精舎です。
後世にはここに多数の寺が建ち並び、仏教の一大中心地となります。
ここに立派な宿泊施設もある施設が建設され、"祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)"と名づけられました。
(ビンビサーラとその息子アジャータサットゥの物語は有名で、観無量寿経に記されています。
アジータサットゥは後に北インドを統一して大帝国を築きます)
その頃インドには6人の偉大な思想家がおり、これは後に仏教側から六師外道(仏教外の偉大な6人の師)と呼ばれるようになります。
その中の一人が不可知論を唱えたサンジャヤ・バーラッティプタなのですが、このサンジャヤの高弟にサーリープッタ(舎利子)という人がいました。
この舎利子がある時、5比丘の一人馬勝と出会い、問答をしました。
馬勝の説く思想に驚いた舎利子はどうしてそのような凄いことが分かったのか問い、馬勝は自分は仏陀(ブッダ)からそれを習ったのだといいます。
舎利子はただちに仏陀(ブッダ)に会わせて欲しいと申し出、会って仏陀(ブッダ)と話をする内、これこそが真の教えであると確信します。
そこで舎利子はおなじくサンジャヤの高弟のモッガーラーナ(目連)を誘ってサンジャヤの許を去り、仏陀(ブッダ)に弟子入りしました。
2人に同調して、サンジャヤの弟子が250人、仏陀(ブッダ)のもとに走りました。
伝承では弟子を取られたサンジャヤは血を吐いて憤死したともいいます。
このサンジャヤの弟子たちは、サンジャヤの許で弁論を鍛えていたため、このあと仏陀(ブッダ)の教団の発展に大きく寄与することになります。
特に舎利子の力は大きく、やがて彼は仏陀(ブッダ)の一番の弟子となります。
仏陀(ブッダ)は、マカダ国をサーリ仏陀(ブッダ)やモッガラー等に任せて、コーサラのシュラーヴァスティーに移る事としました。
その途上、仏陀(ブッダ)は五人の弟子を連れ、故郷のカピラヴァスツを訪れました。
太子のシダッタが、尊敬を受ける仏陀(ブッダ)となって帰ってきたと言う事で、カピラヴァスツの町は熱狂的な歓迎で迎えようとしていました。
路傍に座っている老人と出会っましたが、それはかつての馬丁のチャンナでした。
王宮への路上、歩きながら2人は積もり積もる話しを続けました。。
王も、王妃(※仏陀(ブッダ)の叔母)も、弟のアーナンダも、ヤソーダラ(耶輪陀羅)も、ラーフラ王子も、みんな元気ですと話しました。
仏陀(ブッダ)の父シュットダナ王は待ちきれず、輿に乗って城外に出て仏陀(ブッダ)を迎えました。
王宮に着くと、ヤソーダラ(耶輪陀羅)が仏陀(ブッダ)にしがみついて泣きました。
ラーフラ王子は、孫娘を引き合わせました。
仏陀(ブッダ)は、父に
「業とは、人間本来の本能行為であり、この業から離れなければ、人間は浄治できない」
「人生における五欲の楽しみは危険である」
「苦の止滅への道を修めるなら、餓鬼道や畜生道へ生れ変わる恐怖も取り除かれる」
等を説きました。
シュットダナ王は、息子仏陀(ブッダ)の教えを聞き、恩愛の情から離れ、楽を捨てて道のために努力することを誓いました。
ラーフラ王子を副王に命じ、林泉の離宮へ移り、禅寂の修行を始めました。
異母弟のアーナンダも出家の決意を、仏陀(ブッダ)に告げました。
仏典の仏陀のエピソード
仏陀(ブッダ)は、80才入滅までインド各地を説法巡回し、仏典にはいろいろなエピソードがあります。
キサ・ゴータミー
若い母親のキサ ゴータミーは可愛い我が子が死んだ事を受け容れる事ができず、生き返らせる方法を求めて半狂乱でした。
釈尊のところで心中を訴えたところ、釈尊は「生き返る方法を教える。芥子の粒を私の所へ持ってきなさい。ただし、親兄弟や親戚の誰も死んだ者のない家から」と。
若き母は難なき事と思い、町中を探すが、死者をだした事のない家は一軒もありませんでした。
途方に暮れて釈尊の許に戻った母に「諸行無常生者必滅」を釈尊は説いて、母の心は救われ、母は尼僧の弟子となりました。
大愚チュッラパンタカ
チュッラパンタカ(周梨槃特シュリハンドク)は兄と共に釈尊の弟子となりましましたが、兄の聡明さに比較して、まことに愚鈍で、一つの句さえも記憶できませんでした。
そこで、彼は自らの愚鈍を恥じて教団を去ろうとするが、釈尊の「自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を聞いてこれを思いとどまりました。
しかし、教えの何一つも覚えられないチュッラパンタカに、釈尊は一枚の雑巾を与え「塵を払い、垢を除かん」とだけ覚えて、掃除を命じました。
やがて彼は、その行為が自らの心の掃除である事に気づき、終生この修行を行い、自自分の他の心を清掃し、清浄なる生涯を送りました。
*雑巾の汚れは、怒り、貪り、執着などの心の垢です。
*理知・聡明であっても、体得し実行しなければ意味がなく、智者も愚者も無関係です。
俗説に「茗荷ミョウガを食べると、もの忘れしがちになる」というのがあります。
これはチュッラパンタカの墓から生えた植物がミョウガであったという説から転じたものです。
茗荷の漢字は一説に、自分の名前さえ忘れてしまうので、名前を札に書いて掛けていた、からとも言われています。
尼連禅河の洪水。
釈尊の不思議な力(神通力)について、いろいろな伝説があります。
ある日、釈尊が林の中を布教のため歩いていると、突然、暴風雨におそわれ、立っていられないほどの洪水になってしまいました、弟子たちは、釈尊の身を案じて舟を出して探していると、はるか遠くから釈尊が歩いてこちらへ来る姿が見えました。
しかし、釈尊の周囲だけ洪水の水が左右に分かれ、釈尊は乾いた大地を歩いていたということです。