仏陀の教え-初転法輪

仏陀の教え-真実によれた

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初転法輪

仏陀(ブッダ)はブッダガヤーで一人坐禅をして、悟りを開きます。

これを誰かに伝えたいと思ったけれども誰もいません。

あれこれ考えた末に、先の五人の友達に最初の説法をしようと決めるんです。


5人とは
* 嬌陳如(きょうじんにょ)
* 跋提(ばつだい)
* 婆沙波(ばしゃば)
* 摩訶那摩(まかなま)
* 阿説示(あせつじ)

彼らがどこにいるのかを尋ね歩くと、鹿野苑にいるということがわかりました。

ブッダガヤーから鹿野苑までは、およそ二百キロの路を十日間かけて歩いていきます。

説法の出発点にある

「話しても伝わらない。」

という思い釈尊は鹿野苑に着いて五人の友達に会いますが、五人は「苦行を捨てた堕落をした奴から話しかけられても黙殺しよう」と話し合っていました。

しかし経典によると、大悟した仏陀(ブッダ)の徳が彼らの心を和らげ、いつの間にか釈尊の話す悟りの内容に耳を傾けて、ついに釈尊を師と仰ぐようになったとあります。

この最初の説法を初転法輪といいます。

仏法を広めることを戦車の車輪を運転するのにたとえたわけです。

法の車輪が回りはじめる、その最初の回転です。

仏陀(ブッダ)が友達に法を説いたというところが、初転法輪の一番大事なことだと思います。
ですから、原文では「友よ」と呼びかけていました。

友というのは同じレベルで、師弟という関係がありません。

そこに仏教思想があります。

仏陀(ブッダ)は五人の友人に説きながら、五人と切磋琢磨していきました。

ここに布教の体系や基礎というものができたのだろうと思われます。

その会話はきっとこんな感じではじまったのではないかと想像できます。
「苦行林を出て何をしていたんだ」
「真実を悟った」
「何をバカなことをいっているんだ」
きっと、そういわれて嘲笑されたことでしょう。

あるいは、からかい半分で
「じゃあ、ちょっと話してみろ」といわれたかもしれません。

いまに伝わるエピソードによると、最初のうち仏陀(ブッダ)は自分が悟った内容は理解されないだろうと思って、世人に法を説くのを躊躇しました。

苦行の果てに苦行を捨て、瞑想によって悟りを得たとはいってもそれは個人的なものではないのか、と。

しかも、あまりにも画期的な考え方であったから、それを言葉にして話しても理解されるわけがないと考えたのかもしれません。

だから、これは何もいわないに限ると思ったようです。

話しても伝わらないと思ったのでしょう。

ごの「話しても伝わらない」というのは仏陀(ブッダ)のひとつの大事な発想です。

のちに「枯華微笑」という、言葉を使わずに心と心で理解しあうという概念が出てきますけれど、その大本にあるのが、この「話しても伝わらない」という発想ではないかと思われます。

仏教の長篇の経典には必ず、まとめとしてリズミカルな謁(詩)がついていました。
活を戻しますと、釈尊が「話しても伝わらない」と思っていたところに「梵天勧請」という有名な話が出てきます。

真理を語ろうとしない仏陀(ブッダ)に梵天という神様が「この世の中にはいろいろな人がいて、あなたが悟った真理を理解できる人もいます。

だから自分が得た真実を他人に語りなさい」
と説法をすすめにくるという話です。

このお告げによって、仏陀(ブッダ)は説法をはじめたというのです。


『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである』


これが、第一声でした。

この中道のあと、四諦と八正道の教えが説かれたといわれています。
それで、ポツポツと語りはじめると、半信半疑で聞いていた昔の仲間が納得して
「あなたのいうことはもっともだ。いままで考えたこともないような素晴らしいことだ。

それは確かに真実に違いありません。自分たちを弟子にしてくれ」と。

ここから少しずつ仏陀(ブッダ)の教えが広がって行くわけです。


仏陀の教え-初転法輪

仏陀の教え-真理

梵天勧請[ぼんてんかんじょう]の物語

仏陀仏陀(ブッダ)(釈迦)(釈尊)は自分の悟ったダンマは深甚微妙(あまりにも深く、微妙であり人々の推論の域を越えている)であり、人々には理解されないであろうと考え、それを人々に説くことは出来ないとそのまま涅槃に入ってしまおうと考えていました。

(涅槃)〈ねはん〉[ニルヴァーナ] とは、「(火が)消える」の意味から派生した言葉で、煩悩の火が消え、悟りの境地に達したことをいいます。
また、輪廻からの解放、すなわち解脱を意味します。

そのときの仏陀がそのまま一言も説くことなく、説法をあきらめて涅槃に入ってしまえば、仏陀一人の悟りであり、人々には伝わる事がなかったのです。

それを知ったブラフマー(梵天)をはじめとする天上の神々が、再三お願いすると、釈尊は、過去の仏の示された方便力のことを考えつき、相手に応じて、それにふさわしい方法で、いろいろに説き分けることにしようと決心されたのです。

そして、仏陀(ブッダ)は、梵天王に、こう仰いました。


『わたしは、あなたの勧請を受け入れ、甘露の法雨を降らせよう!
 すべての人々よ、神々も鬼神たちも、すべての耳のあるものは、この法を聞くがよい!』

これで、以来2500年の間、甘露の法雨が地上に降り続けることになるのです。
仏陀は以前6年の間共に苦行した友人(仲間)であった5人の修行者にその教えを説いました。

その説法をうけた5人が仏陀の最初の弟子となったとういうお話しです

仏教の基本は仏陀の教え

仏陀はまず、ヴェーダの祭式万能主義とバラモンの権威を否定、またカースト制度を超越して、「慈悲」による人間の平等を唱えました。

* 仏教の根本的倫理観念の一つで、特定された相手だけでなく、すべての人に最高の友情を持ち、他人の苦しみを自らの苦しみとすること。

仏陀によれば、人間の価値は、現実の人間の存在と行為によってきまるのであり、人が欲望を越えて悟りを開くならば、誰でも永遠の世界 (涅槃) に達することが出来るとあります。

このように、神と人間の関係を説くのではなく、人間自身の生き方を、人間自身に根ざして追求するところに、他の世界宗教には見られない仏教の最大の特色があります。

悟りに至る道は、

真理を発見し (縁起)、
真理に基づき人間苦を滅する道順を学び (四諦 (したい) )、
煩悩を克服する正しい方法を実践する (八正道 (はっしょうどう) )



【縁起 (えんぎ)】

宇宙間の万物の生滅変化を貫く理法のこと。サンスクリット pratitya-samut pada の意訳で、「因縁生起 (いんねんしょうき) 」の略。
仏教の根本思想の一つで、法 (ダルマ) と同一視されます。

【四諦 (したい)】

仏教の実践的原理。「諦」はサンスクリットのサチヤ satya の訳で真理の意味です。
釈迦の最初の説法に説かれたもので、次の四つから成りたっています。

苦諦……この世は苦であるという真理。
集諦 (じったい) ……苦の原因は世の無常と人間の執着心にあるとする真理。
滅諦……無常の世を超越し,執着心を断てば,苦は滅するという悟り。
道諦……滅諦に至るための修行の方法として、八正道を知ること。

【八正道 (はっしょうどう)】

涅槃 (ねはん) に至るための実践です。
釈迦の最初の説法における四諦の中の道諦に当たり、その内容とされます。
その内容は次の8種から成りたっています。

正見……正しい立場
正思……正しい思想
正語……正しい言論
正業 (ごう) ……正しい行為
正命……正しい生活
正精進 (しょうじん) ……正しい努力
正念……正しい精神
正定)……正しい三昧 (さんまい)

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