八正道を説く
「ある人物が深い森の中を彷徨い歩いたときのことです。
草深い中にむかしの人々が行き来した古道を発見しました。
彼がその道をたどってみると、はからずも古城の跡に遭遇したのでした。
そこは荒れてはいたが美しい蓮の花を浮かべた池が静かに水を湛え、周りには実りある果樹の園林がめぐらされた、すばらしい都のあとでした。
彼はすぐに引き返し、その様子を王に報告したのです。
そして、どうぞ彼の所に再び城を築き王都となさいますように、と進言したのです。
王はそれを入れ、その森の中に城を築き直し、王都と定めた。
そこは忽ちに人々が集り住み殷盛を極めたということです。」
仏陀がこのたとえ話を通じて弟子たちに語りたかったことは何でしょうか。
仏陀はナイランジャナーのほとりで正覚を得たときここを回想して、その悟りに至った道すじを話しかけたもので
「私も、過去の求道者のたどった道を発見しました。
それは森の中を彷徨ったこの人物と同じような古道でした。
古道は八つに分かれていましたが到達するところは1カ所でした。
それは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。
これを八正道と名付けました。
私はその道にしたがって進み、やがて老死を知り、それが如何にして来るものかを知ったのです。
また老死を克服すべき道を知ることを得ました。」
仏陀によってもたらされた法は人間が、永遠に通じる道なのに、仏陀はこれを己の発見したものとは言わなかったのです。
ただ、過去の求道者や正覚者たちがたどった古道をよく再見したに過ぎないと語りました。
こういう真理は、われ一個のはからいによるものとは言わなかったのです。
そして古い経典は次のような話を伝えています。
正覚を成就してまだ間もない仏陀は菩提樹の下にとどまって居られたが、ふと心中にある思いが頭をもたげた。
この時、正覚を得たとはいえ三十五歳の仏陀には、未だただ独り天下の高所に立つ自信が確立していたわけではなかったようです。
「尊敬し師事できる、沙門かバラモンがいれば、安心である」。
仏陀は、誰か、同じ思想を抱くものがあれば相依って行きたいと、いろいろに思いをめぐらしたが、師事するような者は居ないのです。
仏陀がついに行きつき、ひらめいた考えはこうでした。
「私は、法によって悟り得たのです。
この法こそダ私が師事し、尊敬し、敬重すべきものである」。
これを後に仏教は「法に依りて人に依らず」と説いています。
降魔成道
ナイランジャナーのほとりの菩提樹の下に結跏趺坐した太子は、「正覚を成ぜずんばこの座を起たず」と誓言したのですが、欲界の魔王はこれを喜ばず、成道を阻もうといろいろの手をつかって襲いかかるのです。
魔王は自ら弓矢をとり、娘の魔女らを率いて菩提樹の下に攻めよせて来たと伝説は語っています。
そして武器をもって威嚇しにかかってきました。
このとき魔王の放った矢は空中に停まり、やがてその矢鏃(やじり)は静かに下降し、地につくや、蓮花と化しました。
魔王の娘三人は、媚態を示して、太子を誘惑しようとします。
これら三人の魔女も、やがて醜い老女と変じ、太子成道の阻害は失敗に終るのです。
ついに魔王は甘言をもって太子を迷わそうと、偈(げ)を唱えて迫って
「苦行を続けよ、それによってのみ、若者は清浄な境地に至る。
汝、浄めの道を離れるなかれ。
清められることなく清しと思うなかれ。」
太子はこのことばを、魔王のしわざと見破って、偈(げ)をもって答えるのです。
「不死のために、苦行を続けたれどすべて益なきことと覚れり。
陸に上がりし舟の櫨舵のごとくにそれは、まったく用をなさざり。
われ、戒と定と慧を体し、菩提の法を修め来たりたり。
かくていや無上の清浄界に立つ。
破壊せんとする者よ、汝の力は尽きたり。」
魔王はここに至って「仏陀はわれを見破ったか」と敗北を覚りました。
この時、太子の右手がたちまち膝上より伸びて、大地を一撫ですると地の神たちが忽然と湧き立って、一挙に悪魔の軍勢を打ち払ってしまうのです。
魔軍は周章狼狽(しゅうしょうろうばい)して姿を消し去りました。
あとは、諸天善神、太子の成道を讃美し、天地を覆いました。
仏陀(釈尊・釈迦)の言行を書きのこしている経典のなかには、悪魔との物語が数多くあるようです。
仏陀(釈尊・釈迦)はこの悪魔とは、人間の心の内にある悪い欲望と思い、またそれは人々の不安に根ざして起きてくる思いに他ならぬと説きあかしています。
一連の魔王との戦いややりとりは、まさに仏陀(釈尊・釈迦)白身の内なる不安とのだたかいを語られたものなのです。
「魔」という言葉は、もともとサンスクリット語の「マーラ」からきています。これは「悪魔」という意味です。
歴史的には「降魔成道」といい、仏陀(釈尊・釈迦)が菩提樹の下で悟りを開いたときに、最後の悟りを開く前に、魔がやはり現われてきて、さまざまな誘惑や攻撃をし、なんとかして悟りを開かせまいと努力したということが、歴史的事実として遺っています。
現代では、それを物語としては読んでも、大部分の人はあの世を信じないし、ましてや、おとぎ話のように魔というものが出てきて、さまざまな妨害をするということなどが、ありえるとは思えませんので、話半分で聞いている方も多いようです。
「仏陀(釈尊・釈迦)の成道、すなわち悟りに入ること、悟ることへの妨げとして現われた魔とは、実は釈迦自身の内面の葛藤であり、悩みのことを魔と語っている」と理解している方もいるようです。
説法の決意
正覚を成就した仏陀(釈尊・釈迦)はなお菩提樹下に坐して瞑想にふけっていました。
「この正覚によって悟りえたものは、容易に人々には理解し難いく、これを大衆に説くことは至難のことかもしれない。」
そういう思いにとらわれ、仏陀(釈尊・釈迦)は沈黙を守るのでした。
この正覚の境地を、ただひとりの胸に蔵したまま終るならば、地上の衆生の救いは永久にないことになるでしょう。
仏陀(釈尊・釈迦)はやがて翻然と、説法に踏み切る決意を固めるに至ります。
それは、「梵天の勧請」という神話をもって語られています。
「世尊よ、法を説き給え。この世界は、真理にまったく盲目の如き人ばかりとは限らない。法を近くにきけば、大いなる悟りに至る衆生も数多いことでしょう。」
梵天は仏陀(釈尊・釈迦)の前に現われ、礼拝しながら、「世界を滅びから救い給え」と、説法をすることを奨めるのでした。
仏陀(釈尊・釈迦)は、人々に対する慈悲の思いを起こし、世の人々のさまをみなおしました。
例えてみれば、それは池の中の蓮の花のようでした。
池の上に美しく咲くものもあれば、やっと水の面に浮かんでいるものもあります。
あるものは、ぐっと他よりぬきんでて、花を開き、泥沼の底に生えながら、その汚れに染まぬものもあるではないか。
「われはいま、甘露の門をひらく。耳あるものはこれを聞け。古き悟りを捨てよ。」
仏陀(釈尊・釈迦)は説法の決意を固めました。
まず何びとにこの法を説くべきか、慎重に考えなくてはなりません。
微妙な、世の常の観念では理解しにくいであろう、この正覚の道を説くことは、まさに重大事でした。
仏陀(釈尊・釈迦)がまず選択したのは思想家でした。
二人の非凡な思想家、アーラーラーカーラーマと、ウッダカーラーマプッタはこの時すでに死んでいました。
かくて、この菩提樹の下より250キロ以上はなれた、ヴァーフナシーのミガダーヤ(鹿野苑(ろくやおん))という所にいる五人の比丘の上に思いを馳せました。
彼らは、仏陀(釈尊・釈迦)が苦行をいとなんでいたときに力を添えてくれたことがあったのです。
仏陀(釈尊・釈迦)は長い道を旅して、鹿野苑へ赴いたのですが、彼ら五人の反応は必ずしも好意的ではありませんでした。
五人の比丘は、苦行を捨てた仏陀(釈尊・釈迦)に批判的でした。
「彼は堕した」と見えたのでした。
彼らは堕落した仏陀(釈尊・釈迦)が大正覚に達したなどとは認めませんでした。
再三の問答の末に、仏陀(釈尊・釈迦)は言いました。
「比丘だちよ。我が顔を見よ。汝らは、いまのように輝く私の顔色を、これまでに見たことがあるか?。」
五人は言われて、それに気付きました。
成程と彼らは思ったのです。
では話を聞くだけ聞いてみようと思いました。
仏陀(釈尊・釈迦)は、始めてここに彼ら五人仰比丘に法を説くことを始めました。
彼らにまず説いたことぱ「中道」ということでした。
それは、自己がいま、立って居る実践的立場についてでした。
「出家したものは、二つの極端なものに近づいてはいけない。
一つは快楽に淫することです。
欲望に執着することは卑しく下劣な所作です。
聖者のとる所ではなく無益なことです。
そして一つは禁欲に偏することです。
自ら苦行を課すことは、ただ苦しいだけのことでありこれまた無益のことで、聖者のわざではない。
私はこの二つの極端を捨てた。そして、中道を悟った。」
これが智恵を生じ、悟りと自由を得るに至る道であると説くのです。
そして中道の実践はすなわち八正道の実践であることを説かれたのです。