菩薩の修行物語
仏陀(釈尊・釈迦)が祇園精舎にいた時、多くの弟子たちに、自己の出家の経緯を語られましました。
「出家する前の私の生活は大変幸福なものでした。
私の家には池がめぐらされ、美しい蓮の花が浮かんでいました。
栴檀香(せんだんこう)のかぐわしい香がただよう部屋に、カーシ産の最上の布を使った衣服をまとい、日々のくらしを送っていたのです。
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※せんだんこう
栴檀は梵語チャンダナの音写。
センダン(栴檀)Melia azedarach は、ムクロジ目・センダン科の植物の一種。西日本を含むアジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生する落葉高木であります。日本での別名としてアミノキ、オウチ(楝)などがあります。
香木の一種で、赤・白・紫などの種類があるという。
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私のために、三つの別殿が造られていて、それは、冬の宮、夏の宮、雨季の宮と呼ばれ、外出するときはいつも白い傘がかざされるのです。
召使いや、寄食する人々にも、米の飯と肉の食事が供されていました。
そのような生活の中にあって私は思いました。
愚かな者は、他人の老いるのをみると厭い嫌ます。
また人はみな老いゆく身でありながらそれを忘れています。
老いることを免れることはできないのに、他人の老いや衰えを厭い嫌うことは、人間としてふさわしいこととは思えない。
そこに考えが至ったとき、私は青春のもつ驕逸(きょういつ-おごり高ぶって分に過ぎた行動をすること。
)を深く省みなくてはならなかった。」
そして病いと、死について、深く思いを致したことも語るのです。
仏陀(釈尊・釈迦)の出家については、「四門出遊」の物語として世に語り継がれています。
仏陀(釈尊・釈迦)がまだ太子であった頃、居城の東門を出遊して老人と出会う。
また一日南門より出遊して病者を見、やがて西門より出て死者に出会う。
最後に北門より出、出家者を見て老病死苦について瞑想し、世を厭う心を生じたというのです。
シッダルタ太子がカピラヴァストウ(居城)を脱け出したのは二十九歳の時であると伝えられています。
愛馬カンタカに乗り駅者チャンナを一人従えて、閏房の侍女たちの眠り深い中をひそかに出門して行きましました。
南に向かって走り翌朝になって、駄者と馬を帰城させる。
そして太子の六年間の修行生活が始まるのです。
仏陀(釈尊・釈迦)が己の出家の前後について語られたことは、次の三つのおごり、たかぶりに対しての誠めとして受けとめられています。
若さを誇る、健康を誇る、生命を永遠のものと錯誤します。
菩薩としての修行
シッダルタ太子は出家しました。
菩薩としての修行がはじまりましました。
彼は出家修行者(シュラマナ)の仲間に入り、その中の勝れた指導者に教えを仰ぎましました。
それは、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の修行者でした。
ガンジス河の北岸、ヴァイシャリーの近くにその二人の師は居て、弟子たちに、ヨーガの実習を指導し教えていました。
菩薩はその弟子として修行し、やがて師と同じ境地にまで達すことができましました。
人間の苦悩の根本を見極め、解決するという境地までは達しませんでした。
さらに各地を経って修行しています。
後年、彼が悟りをひらき仏陀となったとき、「アーラーラ・カーラーマであればこの境地に至り、真理を理解し得るであろう」と思ったといわれています。
菩薩はなお修行の遍歴を続けられ、やがてラージャグリハの西南、ウルヴェーフ村のナイランジャナー(尼連禅河)のほとりに至り、ただ一人苦行に入るのです。
それは厳しい断食行であり呼吸を抑制し、肉体を自ら苦しめることによって、精神の昂揚をはかり自由の境地を究めようとしたもので、死と紙一重に直面するほどの難行であったと伝えられています。
なお、目的はついに達せられませんでした。
菩薩は、ついに苦行は、解脱に到る道ではないことを悟られ、突如苦行を中止してしまうのです。
「苦行六年、集形消痩して枯れ本の如くなるも未だ解脱を得ず。
その道に非ざるを知り、当に食を受けて、然る後に成道すべし。」
そして、ナイランジャナーに入り六年の汚垢(おこう)を洗い浄めましました。
村娘スジャーターの捧げた、乳粥を食し成道に堪える体力を得ましました。
河のほとりの一本の大樹、菩提樹の下に結跏趺坐(けっかふざ:仏教の座法の一つ。左右の足の甲を反対の足のももの上に交差し、足の裏が上を向くように組む座法。)して、大いなる解決に到達するのです。
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※「趺(あし)」とは足の甲のこと、「結」とは趺を交差させ、「跏」とは反対の足の太ももの上に乗せること。したがって趺を結跏趺して坐(すわ)ることをいう。結跏趺坐は足を結んだ形をしているのが特徴であります。片足を乗せる上下で吉祥坐・降魔坐と呼びます。なお、足を結んだ形ではなく、両足を重ねる座り方を、半跏趺坐(はんかふざ)といいます。
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大覚成就の話
その大覚成就は如何なるものであったのでしょうか。
その思想的内容が小部経典に伝えられています。
『世尊は正覚を感じもうた。
尼連禅河のほとり、菩提樹のもとに結跏趺坐して、七日に渡り、解脱の静寂を身に受けられていた。
七日をすぎてから坐を解き、夜に入ってまもなく、縁起の法を思いめぐらし給うたのです。
これあればかれあり。これ生ずればかれ生ずる。
すなわち、無明と名付ける人間の無智迷妄によって行という人間のいとなみが生じる。
行は識を生じ、名色を呼び、六入、蝕、受、愛、取、有、生と因縁が続くでしょう。
生によって来るものは、老、死、憂、悲、悩、であり、そしてついには絶望をもたらすのであります。
このように、「苦」の集積のおこりは、無明に発するものであります。』
このように考えられた世尊は次のような偈(げ)を唱えられましました。
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偈: 偈(げ、gaathaa(sanskrit))とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。
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「まこと熱意をもって思惟するは聖者、万法、かれの前に明らかとなり疑惑はすべて影もなし、縁起の法、功得かくの如し。」
仏陀の悟り得た正覚とはこの「縁起」の法です。
『これあればかれあり。これ生ずればかれ生ず』と説かれています。
「縁起」を説いた話があります。
『二つの蘆束(あしたば)があって、それらが相依っているときは立っていることができる。
これがあるから彼があり、彼があるからこれがあるということも同じです。
二つのうち、ひとつの蘆束を除けば他のものは倒れ去る。
これがなければ彼はなく、彼がなければこれもまたないのであります。』
縁起とはそうのようなものだと説かれています。