ジャータカ物語
古代インド人の思想によると、人間は生死を繰り返し繰り返し、多くの生涯を経ているといいます。
現在の我が身の存在は、過去の生涯の延長であると考えているのです。
最高の悟りを得られた仏陀(釈尊・釈迦)のような人物は、その過去の多くの生涯のあいだに、その基となるものを築いてこられたのにちがいないと考えられています。
こうした考えのもとに、前世における仏陀(釈尊・釈迦)の事跡についていろいろと語られて来たのです。
これが、ジャータカ物語といわれるものです。
ジャータカとは、仏陀(釈尊・釈迦)が前世に菩薩として修行していたとき、生きとし生けるものを教え導いたエピソードを集めた物語です。
歴史的には『イソップ物語』や『アラビアン・ナイト』にも影響を与え、日本にも「本生話」「本生譚」としてその一部が伝えられましました。
仏教の教えを親しみやすく説いたジャータカ物語は、テーラワーダ仏教諸国で広く語り継がれています。
この物語で、常に語られるのは仏陀です。
仏陀はここでは、菩薩と呼ばれています。
菩薩は種々の神として表われたり、国王、王子、大臣、バラモン、仙人、学者、商人、職人、あらゆる形をとって出現します。
また大小色々な動物に変身して語られることもあります。
菩薩はどんな場合でも正しく、賢く、強い存在で、困難を乗り切って成功します。
そして、自己を犠牲にして衆生に奉仕する物語が多いのです。
菩薩の化身である兎が、我が身を焼いて、旅のバラモンに食わせようとした話や、餓えた虎の母仔を救うために我が身を食わせた王子の話は有名です。
兎の話
その昔、菩薩(釈尊の前世のことです)は兎として生まれ変わりましました。
その兎は、猿、キツネ、カワウソという三匹の友達と森の中に住んでいました。
兎は菩薩の転生でしたので、普通の動物と違って智慧がありましました。
彼らは、昼は各々えさを探しに別に行動していましたが、夜は一緒に集まりましました。
その時兎は・悪いこと、ずるいことをしてはいけないと戒の話を、また、自分だけ良ければいいという生き方ではなくて、他人のことも心配するべきですよと布施の話を、また、生きているものとして道徳的でモラルを守るべきですよと修行の話などを、よくしていました。
ある満月の日、兎は修行しようと思いました。
三匹の友人も誘いました。
皆、大変喜んで修行することに決めましました。
修行してもお腹が空くので、まずえさを探しておこうと思ったのです。
兎は、「今日は修行中だから、えさをひとりで食べるのではなく、誰かに一部をあげてから食べなさい」と、注意しましました。
そこで、カワウソが川で人が魚を釣ったものを見つけましました。
キツネは畑仕事の人々が食べ残した肉とチーズのようなものを見つけましました。
猿は木からマンゴーを取って来ましました。
兎は草を食べればよいので、食べ物を貯蔵する必要はありませんでした。
その代わりに、大きな悩みが出てきましました。
食べる前に布施をしなくてはならないと自分で決めたのに、草を乞うてくる人はまずいないでしょう。
三匹の友達の食べ物は人間も食べるので、簡単に施しをできるでしょう。
何か自分が偽善行為をやっているような気もしましました。
「偽善になってはたまらない。
誰かが食を乞うて来たら、この身体をあげます。
兎の肉を食べたがる人は、いくらでもいるでしょう」と、覚悟を決めましました。
兎は、修行のために命まで賭けましました。
天国(帝釈天)にいる天の王・サッカはこれに驚きましました。
皆が正直かどうか試してやろうと、乞食に変身して、一匹ずつ訪ねましました。
カワウソもキツネも猿も、喜んで自分のえさの一部ではなく、全部施しましました。
サッカは「後で来ますから」と言って、えさを返して兎のところに行きましました。
そして、「何か食べ物をください」と、兎に頼みましました。
兎は、「それは良かった。
誰にでも真似できないほどすばらしい施しをしますので、薪を拾って火をおこして下さい」と言いました。
サッカは自分の神通力ですぐ、ごうごうと燃え立つ火を作りましました。
兎は身体についている虫を落とすために身体を振って、火の中に飛び込みましました。
身体が丸焼きになると思っていたのに、この火は熱いどころか異常に涼しかったのです。
兎は乞食に尋ねます。
「善人よ、あなたの火は威勢がよいのですが、私の毛一本も燃やせるほどの熱はありません。
あまりにも涼しいのです」
サッカ天は答えて曰く、「賢者よ、私は乞食ではありません。
あなたの修行にかかる気持ちはどれほど正直かと試すために、天から降りたのです」。
サッカは、「善行為を行うことは、どれほど大事かと後世の人々に知らせてあげます」と思って、月に兎の形を描き遺しましました。
その時から、月にはウサギの姿が浮かぶようになったという事です。
日本にも、同じようなお話しがあります。
餓えた虎の母仔の話
前世で王子様であった時、雌の虎に逢いました。
雌の虎には子供がいましたが餌を得られず、とても痩せ衰えていました。
それを見た王子様は「なんてかわいそうなのだろう」という慈悲の気持ちを起こし、自分の肉を裂いて、雌の虎に与えましました。
その時、お釈迦様は、将来、私が仏になった暁には、生きとし生けるものの心の苦しみを全て取り除いてあげようという誓いを立てられましました。
そして、この雌の虎や子供たちの生まれ変わりが、お釈迦様の最初の教えを聞いた5人の弟子たちとなったのだそうです。
このようにジャータカの題材には、自己犠牲の話が非常に多く語られています。
自己の所有品はもちろん、身命を提供して他人を救うこと、これを「布施」といいます。
そして、清らかな生活を守ることを「戒」と呼びます。
「忍辱」というのは、困難に耐え抜くこと、こうした努力を積み重ね、修行を達成するのが、「精進」であり、「布施・戒・忍辱・精進」の四ヵ条が、ジャータカの主たるテーマとなっています。
これはまた仏教の説く最高のモラルといえると思います。
菩薩はこの信条の上に立って行動しています。
この四ヵ条の上に瞑想と智慧を加えて、六波羅蜜として、菩薩の徳目と称えています。
波羅蜜、または波羅蜜多は梵語のパーラミター(波羅蜜多)のことです。
パーラの語には彼岸という意味が存在します。
パーラミター(波羅蜜多)で彼岸に達するの意と解釈されています。
仏陀(釈尊・釈迦)も前世においてはこのパーラミター(波羅蜜多)を実践し修行したとされています。
菩薩とは仏陀となる資格をそなえたものという意味であり、仏陀となるまでの釈迦牟尼を指すことなのです。
それでは、他の人々にはその道はないのでしょうか。
パーラミター(波羅蜜多)(波羅蜜多)を実践することによって解脱し得ることは可能であると大乗仏教者の思考は進んだのです。
菩薩の道を歩むものは誰しもが、菩薩である、という見地に立って、仏陀は万人を救済します。
その智慧と慈悲を信ぜよと説かれているのだと思います。