仏陀最後の旅立ち
ある日、仏陀(ブッダ)は死を予感されたのか、また10大弟子といわれるうちの2人(舎利弗・目連)に先立たれたことも手伝ってか、生まれ故郷を目指して最後の旅に出られます。
仏陀(ブッダ)はラージャガハを立って旅に出ましました。
霊鷲山(りょうじゅせん、ラージャガハの東)から出発してガンジス川を渡り、仏陀(ブッダ)が好きだった街ヴェーサーリーへ行かれます。
そしてベルーヴァ村で雨期の定住生活に入られた時、「恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった」といいます。
それもしばらくして回復はしますが、ご自身、「私はもう老い朽ち、齢を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達しました。
「わが齢は80となった。
たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らく私の身体も革紐の助けによってもっているのだ。」
と言われるほど、老いと衰弱は避けられなかったのです。
アンバラッティカは、ラージャガハとナーランダの中間に位置する林園で、アジャータサットゥ王の休息所であった。
道を北にとり、まずアンバラッティカー園にある王の家に立ち寄り、ついでナーランダーのパ-ヴァリカーというマンゴー樹の園に滞在し、サーリプッタ(舎利弗)と問答されましました。
このナーランダーにおける滞在と問答は他の諸本には何も伝えていませんが、仏陀(ブッダ)がナーランダーを通過されたことは、地理的に見て十分ありうることです。
仏陀はアーナンダと多くの修業僧逹とともに、アンバラッティカへ出発しましました。
そこで、戒律、精神統一、智慧について修業僧逹に講話しましました。
ナーランダにおいて
仏陀とその弟子達および修業僧達は、富商パーヴァーリカの所有するマンゴー樹林に滞在しましました。
そこで仏弟子の長老サーリプッタは、仏陀を讃えて次のように述べられましました。
過去、未来の長いときにわたって真人、正しくさとった人々がいるが、それらすべての尊師は五つの蓋(おおい)を捨て去り、人を弱くする心の煩悩をはっきりと認識して、四つのことを心に思う修業(四念処)を行い、七つの「悟り」(七覚支)を得る修業を行い、無上の正しい「悟り」を得る。
■四念処とは、以下の四つを心に思う修業
□この身は不浄です。
□感受するものは苦です。
□心は無常です。
□すべての事物は無我です。
■七覚支
□択法(ちゃくほう)。
教えの中から真実なものを選びとり、偽りのものを捨てる。
□精進(しょうじん)。
一心に努力すること。
□喜。
真実の教えを実行する喜びに住すること。
□軽安(きょうあん)。
心身をかろやかに快適にすること。
□捨。
対象へのとらわれを捨てること。
□定。
心を集中して乱さないこと。
□念。
おもいをを平かにすること。
80歳の仏陀(ブッダ)は、ただひたすら歩み続けましました。
出発点・霊鷲山から旅の終わりとなったクシナガラまでの道のりは、およそ400キロ。
この道を、80歳の仏陀(ブッダ)は、ひたすら歩き続けましました。
霊鷲山から北西に16キロ。
仏陀(ブッダ)は、ナーランダ村に立ち寄っています。
行く先々で、仏陀(ブッダ)の元には多くの人々が、集まってきましました。
王侯貴族からカースト街の差別を受けている人たちまで、さまざまな階層の人々です。
仏陀(ブッダ)は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てなく、法を説いたと言われています。
仏陀(ブッダ)・最後の旅は、いつもと変わらぬ、布教の旅として始まりましました。
ナーランダに心行くまで留まった仏陀(ブッダ)は、ある日、弟子のアーナンダにこう告げます。
『さー、アーナンダよ、パータリ村へ行こう』仏陀(ブッダ)は、三つの袈裟と托鉢用の鉢一つだけをだずさえてパータリ村を目指し歩みを進めます。
その後ろには、仏陀(ブッダ)を慕う多くの修行僧がつき従っていました。
ナーランダからパータリ村までは、およそ90キロの道のりです。
それから、北上してガンジス河の南岸に面するパータリ村に着かれましました。
中村元「ブッダ最後の旅」5
これは1973年2月18日NHK教育放送 宗教の時間の録音です。
当時、中村先生は東大教授で61才 奈良先生は駒沢大学助教授で44才です。
日本の誇る偉大な宗教学者中村先生の心のこもったお話です。
21世紀・仏教への旅 インド(1/13)
心の病や自殺の急増、教育現場の荒廃など、混迷の時代となった21世紀。はたして、人間を救う思想はあるのか。作家・五木寛之が世界の仏教のさまざまな姿を辿ります。そこには人生を生き抜く数々の知恵が満ちていました。「人間は大河の一滴」と見据え、「他力」の思想に行き着いた五木寛之が、仏教の可能性を考えながら、仏教の現場、遺跡や寺院を訪ねた映像です。