「苦」の人生をいかに生きるか。
仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。
人間の命は甘美なものだ。」といっていました。
これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という仏陀(ブッダ)のひとつの悟りであったように思われます。
涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。
仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。
在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。
五戒とは
- 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
- 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
- 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
- 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
- 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。
の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。
また仏陀(ブッダ)は精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています。
この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。
参考
この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいます。
十戒律(五戒律も含みます)
- 不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
- 不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
- 不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
- 不瞋(怒り)恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
- 不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。
このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、本当に人を救うことはできないということです。
ただ、誤解してならないことは、自分はまだ完成していない人間だからとても人を助け導くことはできない、という考えを持たないことです。
自分だけの生活に囚われてしまえば、返って自己の完成はできないのです。
人のために尽くすということも持戒の大きな要点ですね。
人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくと思います。
八正道と六波羅蜜
仏陀(ブッダ)は「苦」を滅する方法として八つの正しい道を解き明かしました。これが、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の方法です。
これらすべての方法に「正」の字がついていますが、「正しい」とは「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさし、小我「自分本意」にとらわれて、自分自身を過大評価し、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない大きな立場で物事を判断できる人間となる事を示す道として解き明かしたものです。
ものの見方には現象に現れた差別の見方や前記した大きな立場からの「平等だけの見方」のどちらに偏っても正しい見方とはいえないのです。
ここでなぜ「平等」の見方だけで正しくないのかという疑問が湧くかもしれませんが、物の本質として現象に千差万別の差別の実相を現すには、それなりの原因や条件があり理由があり無視する事はできないのです。
このように差別の見方にも偏(かたよ)らず、平等の見方にも偏らない、両者を総合したとらえ方が本当の「正しい」見方やとらえ方となります。
これを仏教では「中道」といいますが、これは一方に片寄らない、ちょうど真ん中という意味ではなく、その時々の真理の条件・立場に合った最善の方法の見方や考え方という事です。
八正道は仏陀(ブッダ)の説いた涅槃に至るための八つの基本的な修行の道筋で、六波羅蜜は菩薩(仏道修行者)の実践するべき基本的な六つの徳目をいいました。
八正道とは、この前提となるのは、仏教においてどういうことが正しいかという見方なのです。
仏教では、すべて物事は原因があって結果が生まれると考えます。
これを因果律といいますが、この因果律に従うのを「正しい」といい、その囚果律を否定するような考え方を「邪」とか「不正」という。
つまり、囚果律が正邪の判断の背骨になっています。
仏陀(ブッダ)は創造の神を否定して、すべてのものには、すべてそれなりの原因があって結果が生じると考えました。
そうした考えのうえに立って、八つの正しい徳目を修行しなくてはいけない、といっています。
六波羅蜜多と八正道の関係
上座部仏教(テーラワーダ)の僧侶は、修行の項目として八正道を日々心がけ生活しています。
大乗仏教(マハヤーナ)の僧侶と在家信者は、六波羅蜜が修行の基本とされています。
持戒=正語・正業・正命、禅定=正念・正定、般若=正見・正思、精進=正精進になる、と区分しています。これに布施と忍辱が六波羅蜜には加わります。が、布施・持戒・忍辱・精進の4つが大乗仏教の主要修行項目となっています。
八正道→「内面である「思い」
六波羅蜜多→「外面である「行動」
これを規定するためのものではないでしょうか。
八正道→「思いをどのように規定するか」
六波羅蜜多→「その思いが行動の面に現われたとき、どのような現われ方をするか。悟りたる人であるならば、どのような行動の型が現われてくるか」
と考えられます。
「八正道について」
八つの正しい修行の一つ目は「正見」。
正しく見る、観察をします。
何か原因でこういう結果になったのかを見る。
これが原始仏教において釈尊の悟った一番目のことだったんです。
二つ目は「正思」です。
正しく思います。
これは「正思惟」の略です。
ものをよく深く考えるということで、十七世紀のフランスの思想家パスカルも「人間は、思
惟するから尊厳である」といっていました。
三つ目は「正語」。
正しい言葉。
因果関係からいえば、いい言葉を使えばどういう結果が生まれるか、悪い言葉を使えばどういう結果が生まれるかは明らかです。
つまり「正語」を使う修行をしなくてはいけないのです。
仏教では善し悪しは別にして、「語」というものが一番問題になってきます。
りようぜつきご悪い言葉には四つあって、悪口、二枚舌(両舌)、綺語(飾り言葉、お世辞)、嘘(妄語)がそれにあたります。
四つ目は「正業」。
これは「しょうぎょう」と読まずに「しょうごう」と読みます。
日本では「業突爺(ごうつくじじい)」などといいますけれど、業は行為です。
だから正しい行為を正業、悪い行為を悪業といいました。
五つ目は「正命」。
この場合、「命」は生命でなく生活を意味し、「正命」とは出しい生活をすること。
六つ目は「正精進」です。
「精進」は「励む」ということ。
野菜料理のことを精進料理といいますが、「正精進」とは正しい努力をするということです。
七つ目の「正念」
七つ目の「正念」は「正恵」と似ていますが、念は〈思い考える〉思索で、その内容が正しくなければいけないといっていました。
八つ目が「正定」
八つ目が「正定」ですが、これは精神統一を図るということ。
この精神統一が鍛終の目的であって、精神統一をするためには正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行い、正しく生活をし、正しく励まなくてはいけありません。
それによって精神統一ができていくというのが原始仏教の見方だったわけです。
これらを実践して身につけていくことはなかなか大変ですが、語られている内容そのものは決して難しいことではありません。
六波羅蜜
人間が完成する六つの道筋となる「六波羅蜜」は原始仏教が大乗仏教になっていくところで出てきた考え方です。
「波羅蜜」とはサンスクリットで「彼岸に至る」という意味で、日本語に置き換えれば「到達・完成」です。
「お彼岸」といいますが、「彼の岸」というのは理想の岸のことをいっていて、現在の此岸ともいうべき現在の生活に対する理想の環境が「波羅蜜」です。
一番目は「布施」
大乗仏教の見方では、人間が完成していくためには六つの道筋があって、その一番目は「布施」、つまり「与える」というところからはじまるわけです。
原始仏教では八正道の「見る」が最初でしたが、大乗仏教になってくると「与える」ことが一番大事になってきます。
とことんまで人に何かを与えていくことです。
与えるには何か資財が必要ですが、「無財施(資財がなくてもできる布施)」というものがあります。
たとえば「ほほえみ・愛読」など、手ぶらでも人をしあわせにする布施を高く評価します。
二番目は「持戒」。
「戒」とは「いましめ・決まり」ですから、「決まりを持つ」ということです。
決められたことは守っていくということ。
ただし、戒には、いましめだけでなく「つつしむ」という意味もあります。
三番目は「忍辱」。
忍耐ですが、ただ耐えるというだけではありません。
「忍」の字に言偏をつけると「認」という字になります。
「認める」というニュアンスがあることを心に止めておきましょう。
たとえば、書留や宅配便が来たときに認印を押します。
この「認める」とは「確認する」という意味です。
受取人があらかじめ決まっていて逃げ隠れはできありません。
配達されたものを誰かに代わって受け取ってもらうことはできないんです。
現に初期の経典は、「忍」を「認」の略字として用いていました。
ゆえに、忍辱とはただ辛抱するだけではありません。
「運命」という考え方は仏教にはありませんが、災難など好ましくない事柄は宛名指名でやってくる。
つまり「私が受ける災難は私への指名」であって、誰にも代わってもらえない、と確認するのが「認」、すなわち「忍」と同じ意味になります。
確認できれば、歯を食いしばってではなく、納得して耐えることができるでしょう。
四番目の「精進」
四番目の「精進」は、八正道にもありましたが「励む」ということ。
一般にいう「精を出す」の語源です。
五番目の「禅定」
五番目の「禅定」は、八正道の最後の「正定」と同じで精神統一をします。
身心を安定することです。
六番目は「智慧」です。
大乗仏教では原始仏教よりもなお進んで、精神統一の先に「智慧波羅蜜」、智慧の完成というテーマが出てきます。
五つの波羅蜜はこの智慧の完成のための手段になるわけです。
智慧の完成が最終目的になるということです。
ただ注意しなくてはいけないのは、智慧と知識とは達うということです。
「転迷闇悟」~迷いからスタートして最高の安らぎに達する
一般に知識は、学ぶことによって得られ、智慧は、体験によって得られるとされます。
仏教の智慧は、事柄や現象の奥に、因果律や縁起の法などの法則を洞察する機能をいいました。
よく「転迷闇悟」といいます。
迷いを転じて悟りを闇く、迷いを転して心身の安らぎを得る、という意味です。
この安らぎのことを涅槃といいますが、大乗仏教では、六波羅蜜を成就することによって涅槃に到達するとしていました。
「迷いを転ずる」という考え方は、バラモンの支配する古代インドにはない考え方でした。
「転ずる」ということは西洋哲学のほうから申し上げますと、アウフヘーベン(止揚)にあたります。
迷いというものをより高い立場で統一をします。
いいかえれば、迷いというマイナスの価値を、より高い価値へ高めてプラスにしていくI--それが悟りという意味になってきます。
迷いからスタートしたものが修行によって変わり、最後は安らぎに到達します。
それが悟りであるということでしょうか。
その道筋が理論化されているところが仏陀(ブッダ)の教えの特徴です。
修行というと非常に禁欲的な、あるいは精神的な感じがしますけれど、仏陀(ブッダ)の教えは日常の実践と結びついているものです。
しかも、修行の段階が明確に示されているからわかりやすい。
仏教が広まり現在まで続いているというのは、そのわかりやすさに理由があるでしょう。
誰もが日常の申で実践できるというのが重要だと思います。
仏陀(ブッダ)も、王族とか大金持ちたちにも支持されながら、立派な着物を着て、立派な宮殿に住んで、立派なお寺をつくるというわけではありません。
八十の高齢でなおホームレス同然のように歩き回って、貧しい人々の差し出す食事を喜んで受ける。
偉大な宗教者の最初というのは、やはりそういう実践において信者が集まってくるのだと思います。