仏陀の教え-仏陀の教えを継ぐ者たち-仏陀十大弟子-羅喉羅尊者,阿難尊者

仏陀の教え-仏陀の教えを継ぐ者たち

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仏陀の教えを継ぐ者たち

羅尊者(ラーフラ)

密行第一の羅喉羅(らごら)

仏陀(ブッダ)の実子というより、ゴウタマ・シッダルタ太子と妃であったヤショーダラ姫とに授かった子供です。

仏陀(ブッダ)は16歳で結婚されましたが、なかなか子宝に恵まれず、27歳になったとき妻のヤショーダラ姫との間にようやく授かったのが一人息子、羅尊者でした。

太子は我が子が産まれたとき、「障礙(しょうげ)生じたり」とこぼされたとされています。
既に出家を決意されていた太子にとって、子供の存在は決意を鈍らせることになりはしないか。

障礙(さまたげ)は原語でラーフラ。

それが命名のいわれです。

ちょっと気の毒な気がします。


ともあれ、太子は29歳のとき妻子を城に残し出家し、6年後仏陀となられた。

さらに数年後、仏陀(ブッダ)は生まれ故郷であるカピラ城に弟子たちを伴って伝道に来られた。

今では仏陀として教団を率い、民衆を教化し、崇敬を集める仏陀(ブッダ)ですが、ヤソーダラーとラーフラにとっては、身勝手な夫であり父親でした。



彼は父親のいないカピラ城で王子として何不自由なく素直に育てられました。

羅尊者が九歳になった時のことです。
仏陀(ブッダ)が久しぶりに帰城することになったのです。それを知った城の重臣たちが、幼い羅尊者に入れ智慧をしたのです。

「お父上に頼んで、お城や財宝を息子に譲るという証文を書いてもらいなさい」という内容でした。
それは、カピラ城主の権利は事実上仏陀(ブッダ)にあったことから教団に城を乗っ取られるのではないかと重臣達が心配したのです。

「わたしは王になろうと思います。どうぞ財産を下さい。お宝をお与えください。」と言いながらすがりつく幼い羅尊者に仏陀(ブッダ)はびっくりしてしまいました。

ことの重大さを知った仏陀(ブッダ)は、舎利弗と目蓮を呼んで羅尊者をニグローダの林に連れてゆき、羅尊者を出家させてしまったのです。

「お前には金銀財宝ではなく、私が修行をして得た真理の仏法という財産を継がせてあげよう」と仏陀(ブッダ)は申されたのです。


仏陀(ブッダ)はラーフラを精舎へ連れて帰り、舎利弗尊者と目連尊者に指導を委ねられました。

沙弥から比丘となり、やがて阿羅漢果(悟り)を得ます。

周囲はどうしても尊者を仏陀(ブッダ)の子として特別な目で見てしまいがちです。

ですからなおのこと、尊者は戒律を遵守されたのです。

密行第一と称される所以です。




仏陀の教え-仏陀(ブッダ)の遺志を継ぐ者たち-十大弟子について

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仏陀の教え-舎利弗尊者

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阿難尊者(アーナンダ)


阿難(あなん)

阿難、阿難陀の略。


仏陀(ブッダ)の従兄弟で出家後は持者として、生涯仏陀(ブッダ)に仕え、また仏陀(ブッダ)の法門を常に間近で聴聞し、つぶさに記憶したことから、多聞第一の尊者といわれています。

仏陀(ブッダ)滅後の法門と戒律の統一を確立するため、大伽葉尊者の提唱により、第一結集(けつじゅう)(経典編纂会議)が王舎城・七葉窟において開催されますが、多聞第一の阿難が出席資格である阿羅漢でなかったことが、問題視されます。




仏陀(ブッダ)の教えは、お釈迦さん自身が文字にして書きとめられ文書の形で残っていたわけではありません。

生前中は記録することを禁じておられました。

仏陀(ブッダ)の説法を聞いた弟子たちがそれぞれの記憶に留めていたのです。


ですから、仏教経典の書き出しは、「如是我聞
〈ニョーゼーガーモン〉(私はこのように聞いた)」
で始まっているのです。

仏陀(ブッダ)亡き後の教団は、偉大な指導者を失い、教義の混乱が起こりかねない雰囲気に満ちていました。

十大弟子の一人、摩訶迦葉(マハー・カーシャパ)は、それを憂い、多くの高弟たちを集めて結集(けつじゅう)つまりお経の編纂会議を行ない、仏陀(ブッダ)の教えをまとめて後世に伝えようとしました。

この結集で、阿難は中心的役割を担います。

仏陀(ブッダ)のそばで聞き続けた教えを、優れた記憶力で語り続けました。


多くの経典が「如是我聞」(私はこのように仏陀(ブッダ)から聞いた)という言葉で始まりますが、この「我」とは多くは阿難のことなのです。


仏陀(ブッダ)が入滅(没)すると、その教えがバラバラになってしまい、勝手に解釈されることを恐れた摩訶迦葉尊者は、すでに釈迦の教えをまとめる会議【第一結集(だいいちけつじゅう)】を開くことを決意しました。

会議には、悟りを開いた弟子を参加させねばなりません。


ですが、弟子たちの中から、阿難尊者の出席を望む声が上がりました。


阿難尊者は、まだ悟りを開いてはいないが、侍者(お世話役)として常に仏陀(ブッダ)のそばに仕え、行動をともにしていました。


釈迦の教えをまとめるに当たって、最も教えを開いた者、多聞第一といわれる阿難尊者を欠かすことができなかったのでした。


ですが、阿難尊者自身は、まだ悟りを開いていない。


合議に出席することをためらわれていました。


自分のように悟りを開いていない弟子には、参加資格がない、出席は遠慮しよう会議の前夜
阿難尊者は夜遅くまで思い悩んだのです。


はじめて侍者となってから仏陀(ブッダ)が涅槃に入るまでの二十五年間、常に釈迦のそばに仕えてきた。


その間、じかに教えを聴いていたにもかかわらず、悟ることができなかったのであった。


いや、だから」悟ることができなかったのかもしれない。


苦しみ悩んだ夜も明け
いよいよ会議の開かれるという日の朝、彼はついに悟りを開くことができました。


ここに、彼を含めて五百人の弟子が集まって、ラージャグリハの郊外、七葉窟(しちようくつ)において経典をまとめる会議が始まりました。


摩訶迦葉尊者が議長を務め、戒律についてはウパーリが中心になってまとめ、教えは阿難尊者が中心となってまとめたのでした。


そのとき、こんな場面があったそうです。



「世尊(仏陀(ブッダ))は、細かい戒については廃止してもよい、とおっしゃいました」
阿難尊者が、釈迦のことばを伝えると、当然のように質問する者が現れた。


「具体的にどの戒を廃止して、どの戒を残せ、といわれたのか」
ところが、阿難尊者はそこまで確認していなかったのです。


阿難尊者を責める声が上がった。


こんなに大事なことを、どうしてきちんと確認しておかなかったのか、というわけです。


結局、合議では、細かい戒をふくめて遵守(そんしゅ)しなければならないという結論に達した。


だが、このいわゆる″小小戒(しょうしょうかい)の是非をめぐる議論は、後に教団の分裂を紹くほどの問題となっていったのです。


阿難尊者は、女性の弟子つまり尼僧教団を釈迦に認めさせたのは彼の功績だったということです。


仏陀(ブッダ)は、当初、女性が出家することを許していませんでした。


仏陀(ブッダ)の育ての親マハーパジャパティは、夫であるシュッドーダナ王の死後、自分も出家したいと仏陀(ブッダ)に申し出ましたが、仏陀(ブッダ)は、それを許しませんでした。


どうしても出家したいという願いを捨てきれないマハーパジャパティは、同じ思いを抱く釈迦族の女たちと、黒髪を切り、手に鉢をもって裸足で仏陀(ブッダ)の跡を追いました。


それを知った阿難尊者は、女性の出家を仏陀(ブッダ)に願い出ました。


ですが、釈迦はそれを認めませんでした。


だが、これまで仏陀(ブッダ)に背いたことのない阿難尊者は、何回も願い出て、女性の山家の正当性を、主張したのです。


仏陀(ブッダ)も、それを良しとして女性の出家を認めたのです。

女性に出家の道を開いたことや、仏陀(ブッダ)の寿命を縮めたこと等、6種の罪状を指弾されて大衆の面前で総括されるなど、悲惨な目に遭う。


彼はそれでも頑張ってすぐに阿羅漢の悟りを開き、「結集」の場では経典の回想を担当して余人の及ばない貢献をしました。

経典を繙くと、冒頭は必ずと言って良いほど「如是我聞(にょぜがもん)」或いは「我聞如是(がもんにょぜ)」と始まるが、この「我」とは阿難のことであると伝えられています。


最高の生き証人である阿難の地位もやがて蔑ろにされるようになる。

とある林で彼は出家の少年に出会った。

少年は読経をしているのだが、よく聞いてみると何やら無茶苦茶なことを言っています。

そこで阿難は注意して指導するのだが、少年はそれを聞き入れないどころか、何と逆に「老い耄れた阿難の方こそ間違っている」等と言い出す始末。

阿難はすっかり呆れ果てて言葉も無くその場を去った。

教化の情熱を失った彼は死を決意する。

そして、ガンジス川の真ん中で衆人環視の下、神通力で起こした炎に自らを包んで果てたのでした。


声聞の弟子である阿難もやはり将来は成仏するとされています。

仏陀(ブッダ)が予言するところによれば、「山海慧自在通王如来」と云う仏に成り、「常立勝幡」と云う国土を建設すると云うことです。


後の仏教教団は、阿難を師と仰ぐ人たちによって大きく発展したといわれます。

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