仏陀の教え-人生とは「苦」

仏陀の教え-仏教の基本は仏陀の教え

HOME > 仏陀の教え > 人生とは「苦」

仏陀の教え-タイトル

人生とは「苦」を背負って生きていく道

人生とは「苦」を背負って生きていく道であるそこでブッダが語ったのは、この人生は「苦」だということだったわけです。

なぜ苦なのかといえば、

人は生まれた瞬間から死に向かって一歩一歩、歩いていく存在であり、どんな希望を持とうが人間の命は儚いものであるからです。

しかも人は老いて、病気をします。

そういう人生とは「苦」を背負って生きていく道である、と考えたんです。

人生の苦の内容を解いてみると、一寸先がどうなるかわからないという未来への不安の苦しみがあり、それから万事自分の思うようにならないという不満の悩みがあります。

この二つが合わさって「苦」の原因になっていると思うのです。

そして、この二つとも自分が中心にあります。

だからブッダは「苦」というものをどこまでも自分の問題として考えていました。

ブッダは、そうした「苦」の本質を四つに分けて説明していました。

つまり、

  • 「欲望に基づく苦」
  • 「無知に基づく苦」
  • 「人間存在そのものに根ざす苦」
  • 「無常に基づく苦」

の四つですが、

このうち「欲望」と「無知」から苦が生じるというのはわかりやすく、人間は欲望が満たされないから苦を感じます。

またそうした欲望が自分の内側に向けられると、自己矛盾や自己否定を引き起こしますが、どうしてそうなるのかがわからないから一層大きな苦を感じてしまうというわけです。

人生の苦の内容を解いてみると、一寸先がどうなるかわからないという未来への不安の苦しみがあり、それから万事自分の思うようにならないという不満の悩みがあります。

この二つが合わさって「苦」の原因になっていると思うのです。

この世の苦しみをまとめた「四苦八苦」という教え三つめの「人間存在そのものに根ざす苦」というのは、これは「四苦八苦」のことです。




「四苦八苦」
「四苦八苦」は仏教の根底となる教えですが、
まず四苦ですが、これは時間的な苦悩で「生・老・病・死」ということになります。

まず生まれて来たという苦しみがあります。

「生」とは「老・病・死」を統括したものだと考えていました。

つまり、生まれて来たから老いの苦しみがあり、病の苦しみがあり、死の苦しみがあります。

「老・病・死」の苦しみの一番の元は生まれたことだ、「生まれざりせば」と、する向きもありますが、一理あります。

生まれて来たことが苦しみの始まりである。

次の八苦ですが、これは八つの苦があると思っている人が多いようですけれど、違います。
時間的の四苦に、空間的の

  • 怨憎会苦(おんぞうえく)
  • 愛別離苦(あいべつりく)
  • 求不得苦(ぐふとくく)
  • 五陰盛苦(ごおんじょうく)

の四苦を加えて八苦とするので、四苦の他に八苦があるのではありません。


五陰:五蘊の旧訳:現象界の存在の五種の原理。

色(しき)・受・想・行(行)・識の総称で、物質と精神の諸要素を収める。

色は物質及び肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意思・記憶など、識は認識作用・意識。

一切存在は五蘊から成り立っており、それ故、無常・無我であると説かれています。

仏陀の教え-人生とは「苦」を背負って生きていく道

仏陀の教え-四苦八苦

「四苦八苦」

怨憎会苦(おんぞうえく)

「怨憎会苦(おんぞうえく)」ですが、これは怨み憎しみ合う同士が会うことです。

すると互いに頼ることができないので、ともにいて苦しむことになります。

たとえば敵同士だと思うような人間が夫婦になるとか。

別れたらいいのですけれど、別れることもできません。

これは苦しいことです。

自分を憎み、嫌いだという相手への思いは、必ず相手にも反映して、自分のことを憎み、嫌われます。

相手がなぜ自分にとって嫌いなことをするのかということを考え、相手の立場に立って想像力を働かせれば、その人が、生まれつき愛されない環境に育ったとか、あるいは、ずっといじめられてきたとか、欲求不満の固まりであるとか、そういうことがわかります。

そうすれば、ただ憎むよりも哀れみを感じることができます。

憎しみを哀れみに変えることが出来れば、自分も救われると思います。


「愛別離苦(あいべつりく)」

「愛別離苦(あいべつりく)」、愛する者と別れたくなくとも別れなければならない苦しみがあります。

尾崎紅葉の『金色夜叉』は有名ですが、「愛別離苦」をテーマにした小説は昔から数多くあります。

人の苦しみの中でも、とりわけ重いのは、愛する人と別れねばならない苦しみで、これを「愛別離苦」と言うが、生きる者すべての人が背負わなければならない自然の道理ですね。

その道理に触れて納得した時、今生かして頂いている命を大切にしようと思い、人にやさしくなれるのではないでしょうか。

「求不得苦(ぐふとくく)」

「求不得苦(ぐふとくく)」というのは求めるものを得ることのできない苦しみです。

いまでいう欲求不満です。こういう苦しみもあります。

「求めるものが得られないから苦しい」という文字通りの意味だけではありません。

求めて手に入れても、それを喜べず、さらに他のものを求めてしまう。

そのように自分で自分を苦しめている姿を「求不得苦」ということばは教えています。

人生を親鸞聖人は和讃に
“生死の苦海ほとりなし”(しょうじのくかいほとりなし)
と書かれています。

苦しみの海にはほとりがない、果てがないということでしょう。

「五陰盛苦(ごおんじょうく)」

これはいろいろ解釈があります。

仏教的な見方では、極めて素朴ですが、原始仏教では、人間の体は五つの要素が集まってできています。

五つの要素は「地水大風空」です。

  • 「地」は大地のように固い骨。
  • 「水」は唾液とか血といったような液体。
  • 「火」は熟ですから体温。
  • 「風」は呼吸。

そういう四つのものが集まって、これが「空」であると考えられています。

これはインドのものの考え方です。

「地水火風」と四要素を列記して、その全体を集めて「空」とします。

この空をも合めた五つが苦しみになるというわけです。


それはどういう意味でしょうか。

五陰とは、色受想行識の五つを指します。

人の精神的作用を構成している五つの要素と思って下さい。

般若心経にもありますように、五陰は「空」です。



病気をしたとき、周りの人はあなたに優しくしてくれますね。

その時あなたは、有難いとか、うれしいとか思いませんでしたか?。

精神的に追い詰められてるとき、「つらいね」と声をかけられ、目頭が熱くなったことってないですか。

元気溌剌のときは、感じない自分の周りの「お陰さま」。

体も心も元気だから、「ほっといて!」「人の勝手でしょ!」とかつい思ってしまいます。



この「五陰盛苦」は、なかなか意識しにくい苦です。

五陰が盛んであれば健康な証拠ですが、この健康が苦しみになるという意味です。

いわゆる「元気を持て余す」という苦悩です。

現代の若者にいろんな乱暴な行いがあるのは、精力が盛んで元気を持て余してしまっているからです。

過剰な健康も苦しみになる。

だから人間は「求不得苦」で苦しみ、「五陰盛苦」でも苦しむ。

どっちに転んでも苦しみになっていきます。

これが四苦八苦というものです。

無常とは

無常とは無常とは虚無ではなく、物事が成長するプラスの面を見ること四苦八苦は人間が生きていくうえで付いてまわるとブッダはいいました。

そしてさらに「無常に基づく苦」があると。

無常というと日本人は『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」を思い出します。

「人生の短いことをはかなむ」といった意味でとられがちですが、仏教の経典に出てくる「無常」は少し意味が違うようです。

無常というのはブッダの教えそのものですけれど、日本では今、非常にセンチメンタルでマイナス的なものとして、とらえられていました。

これは無常を感情や情緒として感受するためです。

感情的にとらえると、どうしても虚無的になりやすいのですが、それはいうなれば「無常感」といったものです。

ブッダの説く無常はそうではなくて「無常観」。

すべて存在するものは絶えず移り変わっていると観察する人生観であり世界観です。

経典では、人間が「生あるものは必ず死ぬ」という赤裸々な事実や現実をそのまま受け入れたとき、そこにある種の深い感動が生まれ、そこから感嘆がわき出てきます。

それが「無常」だといっています。

つまり、「無常に基づく苦」というのは「生あるものは必ず死ぬ」という事実そのものを指しているといっていいでしょうか。

その事実を受け入れて、なおかつ前向きに生きていこうということでしょう。



ブッダが成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。

この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿を見る場合を指して言うと、説明されている。

この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。

なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本人と「無常」
「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることはできません。
単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされています。
「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされています。
「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言って良いでしょう。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「四諦」
人生の根本にある真理を「四諦」という、四苦八苦を背負いつつ、この世は無常であるという真実から目を反らさずに、なおかつ希望を持って明るく人間らしく生きていこうと。

そういう道があるか、とブッダは自らに問うたわけです。

そして、「ある」と考えました。
それから次に、「ある」とすればどうしたらそれを実現できるのかと考えるわけです。

そして語られたのが「四諦」という四つの真理です。
その四つとは

「苦しみ」
「苦しみの起こるもと」
「苦しみを減らし、なくすこと」
「苦しみを減らし、なくした状態に導く道」


* 苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
* 苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
* 苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
* 苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)


というものです。

これを解釈しますと、まず大切なのは真実の生き方とは苦を背負いつつ生きていく道であるという確信を得ることである。

次に、そういう真実の人生を生きようとする人間の努力を妨げているもとになるのは煩悩です。

この煩悩をコントロールして、もっと澄んだ心持ちになっていけば、「苦」の世界を活き活きと人間らしく生きて行けるはずです。

そのための道を指し示しかものが仏道だ、と。

その四つを、「苦節」「集諦」「滅諦」「道節」といいました。
「諦」はあきらめでなく、「真理」です。

この四つが人生の根本にある真理だと釈尊は教えるたのです。

それを知ることは決して虚無に陥ることではなく、むしろ、よりよく生きる道が開けるということなのです。


釈尊は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といっていました。

これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という釈尊のひとつの悟りであったよう思われます。


ブッダは何をいいたかったのでしょうか。

現実には素晴らしいものはたくさんあるし、美しいものもたくさんあります。

しかし、それらはあっという間に過ぎ去り、消えて失われていくものです。

自分も同じく、やがて死んでいくものです。

ブッダが町や木を見て「楽しい」「美しい」といったのは、苦の世界において生を肯定している言葉だと思います。

「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」というのもそういうことです。

しかし、この世という全体は「苦」なのです。

そうした苦の世界をどのように生きるかなのです。


そこから人間の煩悩を断ち切って苦しい人生をよりよく生きるという実践論が出てくるわけです。

仏陀の教え-無常とは